地層

 演奏会のたびに、自分のだらしなさを思い知らされます。演奏会のあとに、楽譜を整理しないから。黒ファイルの中の楽譜が、溜まりに溜まっているから。

 

 

 以前は、なんとなく、スケッチブックに楽譜を貼るようにしていました。それはそれで、後から見返すと楽しいんです、アルバムみたいで。

 

 

 ブラアカでは、楽譜は黒ファイルに入れるということで統一されているので、ブラアカで使った楽譜は、僕のずぼらさも手伝って、すべてその黒ファイルの中に入っています。

 

 

 今年の駒祭でも、今までの楽譜が積み重なったそのファイルを使います。そして、今までと同じように、適当なページに、1曲目から順番に入れていきます。

 

 

 新しい楽譜を古い楽譜の上に入れる、上書きする、新しい層を積み重ねる、古い記憶を覆い隠す。

 

 

 地面に新しい土が降り積もり、地層をつくる。そうして積み重なった地層は、そのまま演奏会の記憶となる。

 

 

 

 

 今回の楽譜を入れていると、今年の新歓と五月祭で演奏した、アルメニアンの楽譜がありました。バスはしんどかったなあ。けど、五月祭では、安田講堂によく響いた、って打ち上げで言い合ったのを憶えている。

 

 

 2年前のコンクールの楽譜。1年の頃は、周りのことが見えず、あまりに身勝手に振る舞っていたから、とても反省している。

 

 

 今年の訪問演奏会の楽譜。某1年生と2人だけで頑張った。1年生は、はやりのダンスとかもやってたっけ。いや、彼らはもう2年生なんだった……

 

 

 

 

 そうした、さまざまな思いが去来する中で、自然とたどり着くのは、もうすぐそばまでやってきた、ブラアカでの3年間の終わり。

 

 

 楽譜の地層は、楽しい記憶も苦い記憶も、ひとしく教えてくれる。けれど、その地層が顧みられることさえもなくなるときが、もうすぐやってくる。演奏会を運営するのだって、もうすっかり2年生がやってくれている。頼もしいから、今回は助言すらほぼする必要もなかった。ここにいられる時間も、残り少なくなってしまったんですね。

 

 

 きっといいステージになると思います。そして、いつかファイルを開いたときには、”Shall We Brass?”という名の地層に、きらきらした宝石のような思い出をたくさん見るのだろう、と思います。

ひとりごと

・昨日の朝食にて。

 

 

 トーストを焼くと、そのうち冷めてしまうけれど、カリッとするのは消えないんですね。冷めたトーストに、可逆と不可逆の両方を見た気がしました。

 

 

 考えすぎですかね。死期が近いんでしょうか。

 

 

 

・水風呂に入ってきました。けっこう好きです。

 

 

 誰も入ってこない浴槽でじっと待っていると、水面の揺れが小さくなり、体に触れている水の温度が体温に近づき、しんとするときがあります。そして、少し水が揺れると、自分が押される感覚を得ます。水っていうのは、案外重いものなんですね。

 

 

 自分と水とが近づき、水が単なる不定形ではなくなり、水が自分に物理的に作用する、そんな感覚が楽しかったです。

 

 

 

・さて、今は米子へ向かっています。7時間前に決めましたが。旅程もちゃんと決まっていませんが。目当ての路線は今日、運転を見合わせたようですが。楽しみです。

ひとりごと

 

・C棟期間があってよかった、と心から思いました。ほんとうに意義深い練習の時間でした。C棟期間、おつかれさまでした。

 

 

・そういえば、カルディのコーヒーポイント、100ポイント貯まったので、サービス券もらえました。すごくないですか。

 

 

 夏ということで、最近アイスブレンドめっちゃ買ってます(前にも書いたか)。アイスブレンドってのは、夏季限定で名前を変えているだけで、実際のところイタリアンローストらしいです。イタリアンローストは、春合宿に持って行った豆で、練習の合間にいれては飲んでいました。味、香り(匂いフェチなので)、そして飲みすぎたときの動悸(種類は関係ないか)、この曲に取り組み始めた頃をいろいろと思い出させてくれます。イタリアンロースト。

 

 

 

・一日でも長く、この曲と向き合っていたい。

 

 

 今日の通しの後、もう少しあっさり終わるかな、と思ったら、みんなやりたいところがいっぱいあったみたいで、そうだよな、と思いました。

 

 

 今まで取り組んできたことが、昨日や今日の通しでようやく現れてきた気がしました。だからこそ、少しでも長く、この曲に取り組んでいたい。

 

 

 そういった意味では、都大会に行きたい、というのも、本心としてはあります。

 

 

 けれども、明日で最後になってしまうかもしれません。いや、数時間前にも言ったように、そう思っていた方がいいのかもしれません。その刹那性が、そのはかなさが、音楽の輝きを増すのかもしれません。

 

 

 今まで大切にしてきた音楽を、明日多くの方に聴いてもらえる、ホールで演奏できる、しあわせなことです。楽しみ。

連続と不連続、もしくは離散の狭間で

 「音楽とは、連続的なものであるか、離散的なものであるか」という問いをめぐる考えの、私にとってのきっかけは、あるとき、ある人(言うならば、音楽というものについて権威を持っている人、教授のような)に、「音楽は(唯一の)離散的な芸術である」と言われたこと、そして、それについて、反論はできないながらも、やや硬質な違和感を抱いたことです。

 

 「音楽は離散的な芸術である」と主張し得るのはなぜか。それは、楽譜というものがあり、そこにはAとかCとかといった音高と、4分音符なんかといった音の長さが決められているから。音高も音の長さも、離散的なものだからです。例えば、EとFの間、もう少し言えばE3とF3の間の音というのは、楽譜上存在しません。

 

 他の芸術、例えば絵画と比較してみましょう。絵において、例えば色というのは離散的な値を取っているでしょうか。当然、デジタルカメラで写真を撮ったりすると、そのデータは離散的な値を取るわけですが、作品そのものの色は、絵具の配合や筆のタッチにより、一つとして同じ色はありません。色は明らかに連続的なものです。そして、その色が存在している領域––––音楽では”音の長さ”にあたるでしょうか––––についても同じことです。

 

 「音楽」が離散的か連続的かは置いておいて、「楽譜」は明らかに離散的なものだというのは、議論を待たないことのようです。

 

 

 さて、いま意図的に「音楽」と「楽譜」という2つの言葉を使い分けたわけですが、他の芸術と比較した時の、音楽という芸術の特異性は、明らかに創作が2つの段階を経るということでしょう。曲を作る、つまり「楽譜」を作るという段階と、それを演奏して、私たちの耳が受け取る形の「音楽」を作るという段階です。

 

 もう少し言えば、乱暴な言い方ですが、楽譜は離散的なものであり、演奏は連続的なものだ、と言うことができます。さらには、演奏は、必ず楽譜からはなんらかの形で「ずれている」とも言うことができます。

 

 例えば、完全に離散的な状態(楽譜に最も忠実な状態)の音楽、つまり、よく言われる例えですが、楽譜をそのままパソコンに打ち込んで、機械で音を出しました、というような演奏が受け入れられるか、といえば違うでしょう。私たちが求める音楽というのは、離散的な楽譜の状態ではなく、そこから発展した、なんらかの連続的な状態のものでしょう。

 

 

 私たちに、不連続なものはフィットしない。なぜか、そのもっとも原理的な答えは、「私たちは決して不連続な存在ではないから」というところに尽きるような気がします。

 

 連続な存在であるがゆえに、私たちの中に浮かび上がる思考や感情は、いつも白黒つけられるわけではない。私たちがその楽譜から受け取る「音楽」も、決して不連続なんかではなくて、連続なもの。その音楽を表現するときに、音楽を私たちにフィットさせずにはいられないのではないか。

 

 また、少し脱線してしまうのですが、これと似ているようで似ていない、しかしながらやはり特異なのは書道、もっと広く言えば、広義のカリグラフィーではないでしょうか。これも、例えば題材の数ということでいうと、最も一次的な題材である字の数というのは多く見積もって数万字ですよね。(例えば絵では、題材、つまり描く対象というのは、(この世界に存在するものについてのみ考えても、)無限に考えられる。)しかも誰かが新たに生み出すといった、音楽で言えば作曲という行為(字を新たに作る行為)があるわけではない。その枠、つまり与えられた文字という枠の中でしか身動きが取れないまま、何かを表現しようとする。

 

 そう、カリグラフィーにおける文字は、音楽における楽譜と同じで、私たちは、楽譜という決められた枠の中でしか身動きが取れないけれど、それでも何かを表現しようとする。いや、身動きが取れないからこそ、抵抗のエネルギーが生まれるのではないか。

 

 

 連続と不連続の狭間で、いえ、不連続から連続に向かって、私たちは進んで行こうとします。楽譜という不連続な枠組みの中で、もしくは、その不連続な支配的な力に引き留められながら。その枠組みから逃れようと抵抗しながら、私たちにふさわしい形を求めて、身悶えしながら、連続へと向かっていきます。

 

 音楽には、当然いろいろな切り口があり、これはそのうちの一つなのだと思います。もしくは、僕がこういった音楽を好む、ということなのかもしれません。そして、だからこそ、まずは枠組みをきちんと見定め、自分がどう進みたいと思うか、そのフィーリングを大事にしたいのだと思います。

 

 

 例によって支離滅裂な文章を読んでくださってありがとうございます。コンクール、がんばりましょう、とは言わずに、いい音楽をしましょう、と言うことにします。

緊急のひとりごと(は?)

 ・緊急のひとりごと

 

 かなり音合わせもして、譜読みも進んできたんだが、別の新しい領域?に足を踏み入れてしまい、そいつがとてつもなく広大である、少なくともそう見える、というのが今です。今の合奏の状況というところでもあり、僕の今の譜読みの状況でもあります。

 

 でもこっからなんでしょうね、見たことない景色が見えるのは。不安と期待がないまぜになり、カフェインを摂ってるわけでもないのに動悸がするこの気持ちは、この曲のスコアの譜読みを始めた週にも感じた気がします。

 

 

 ・緊急ではないひとりごと

 

 指揮やり始めると楽器の練習あんまりできなくなるよ、というのは、上の人から、特に指揮の先輩から聞くことではあって、僕は大丈夫、練習していこう、と思っていたのですが。いつからこんなに下手くそになっちゃったんだろうなあ。いや前から下手くそだったんだけど、今は下手くそな状況に甘んじてしまっている。前はそういうことはなかった。練習したいなあ。

 

 そう思う一方で、今はトロンボーンよりも、この2曲に集中したいという気持ちもあり、そっちの方が楽しいというのもあります。前向きに捉えていきます。楽器はもうちょいお休みかな。

曲紹介:時に道は美し

 例えば美術館で、もう少しこの絵を眺めていたい、と思うとき。例えば友人との集まりで、まだ遊んでいたい、もう少し話していたい、と思うとき。そんな瞬間が、みなさんにもきっとあることでしょう。確かに楽しいその瞬間から立ち去らなければならない状況というのは、時として、私たちにその楽しさよりも、寂しさや切なさをより強く印象づけます。例えばそれは、私たちが夏の終わりに抱くであろう感情にも似ているかもしれません。

 

 

 さて、この作品を演奏すると(と言っても、指揮者という立場で演奏するということは、その演奏を聴くということとも不可分ではありますが)、筆者にはそのような感情が無意識に立ち上がってくるのです。

 

 

 その理由の一つは、音楽の持つ普遍的な性質にも見出されるでしょう。音楽は、そのたゆみない流れによって、長くても数十分という短い猶予しか与えないまま、私たちを否応なく立ち去らせます。言い方を換えれば、ある意味では、音楽はその聴き方、受け取る方法が決められているのです。なぜなら、演奏時間が決められているから、さらに言えば、どの時間にどの音を聴くかということが決められているからです。「もう少しこれを聴いていたい」という欲求は満たされないのです。

 

 

 しかしながら、それはあくまで普遍的な性質なのであって、この作品を特徴付ける曲想にもその理由が見出されなくてはならないでしょう。作曲者である長生淳氏は、この曲について、「異性間の愛情というよりは、家族愛や人類愛・博愛といったものを思い描きつつ作曲した……のにもかかわらず、じわっとしたぬくもりのようなものに欠け(中略)ひりつくような曲想」になったということを述べています。

 

 

 氏の言及する通り、この曲に確かにある「ひりつくような曲想」というのは、焦燥感を感じさせるような、とも表現できるような曲想です。一度曲を始めてしまったら、もう戻れない、最後まで止まることなく進んでいかなければならない。それは、単に時間の流れと重ねてみることもできますが、それよりも人間の人生と重ねてみるべきものなのでしょうか。最初に述べたように、どんなに楽しいこともいつか終わりを迎えますし、そんな時には、楽しさよりも、寂しさや切なさをより強く感じるものです。それは、人生の中の様々な出来事にも当てはまるでしょうし、あるいは人生そのものにも……。

 

 

 

 

 さて、ここまでに書いたことは、決してこの曲の絶対的な唯一の解釈、というわけではありません。筆者がこの曲から受けた印象や、そこから自由に思考してみたことを、拙いながらも書いてみたまでです。

 

 

 この演奏を通して、皆さんにも何かしらの印象を与え、何がしか考えていただけたら、と思います。さらに少しでも筆者と共感していただけたならば、一人の表現者として、これ以上なく喜ばしいことだと思う限りです。

ひとりごと/近況

・暑くなってきました。一応まだ4月ですが、汗をたくさんかく身としては、本当に憂鬱な時期が始まったなという気持ちです。

 

 

スヌーピーのLINEスタンプには、「申し訳なさ」を示すものがないですね。たまたまでしょうか。

 

 

・たくさんの1年生が入ってくれましたね。本当にうれしいです。最近の合奏は、やることは多いし時間は足んないしで大変なんですが、1年生の方がもっともっと大変なんだろうな、と思うと、僕の「大変」なんてちっぽけなものだな、と。音程合ってないとかあってまだまだアレですが、やっぱ音厚くなってよいですね。これから1年生がのびていったらどうなるか、とても楽しみです。

 

 

・声が出ない日が何日か続き、身体的な感覚としてもう声が出ない気がする、と思ったのですが、数日前からけろっと声が出るようになりました。あっけないもんです。ところが、以前とはちょっと声が変わったような気もしますし、再度声が出なくなることがあるような気も、なんとなくします。