曲紹介:時に道は美し

 例えば美術館で、もう少しこの絵を眺めていたい、と思うとき。例えば友人との集まりで、まだ遊んでいたい、もう少し話していたい、と思うとき。そんな瞬間が、みなさんにもきっとあることでしょう。確かに楽しいその瞬間から立ち去らなければならない状況というのは、時として、私たちにその楽しさよりも、寂しさや切なさをより強く印象づけます。例えばそれは、私たちが夏の終わりに抱くであろう感情にも似ているかもしれません。

 

 

 さて、この作品を演奏すると(と言っても、指揮者という立場で演奏するということは、その演奏を聴くということとも不可分ではありますが)、筆者にはそのような感情が無意識に立ち上がってくるのです。

 

 

 その理由の一つは、音楽の持つ普遍的な性質にも見出されるでしょう。音楽は、そのたゆみない流れによって、長くても数十分という短い猶予しか与えないまま、私たちを否応なく立ち去らせます。言い方を換えれば、ある意味では、音楽はその聴き方、受け取る方法が決められているのです。なぜなら、演奏時間が決められているから、さらに言えば、どの時間にどの音を聴くかということが決められているからです。「もう少しこれを聴いていたい」という欲求は満たされないのです。

 

 

 しかしながら、それはあくまで普遍的な性質なのであって、この作品を特徴付ける曲想にもその理由が見出されなくてはならないでしょう。作曲者である長生淳氏は、この曲について、「異性間の愛情というよりは、家族愛や人類愛・博愛といったものを思い描きつつ作曲した……のにもかかわらず、じわっとしたぬくもりのようなものに欠け(中略)ひりつくような曲想」になったということを述べています。

 

 

 氏の言及する通り、この曲に確かにある「ひりつくような曲想」というのは、焦燥感を感じさせるような、とも表現できるような曲想です。一度曲を始めてしまったら、もう戻れない、最後まで止まることなく進んでいかなければならない。それは、単に時間の流れと重ねてみることもできますが、それよりも人間の人生と重ねてみるべきものなのでしょうか。最初に述べたように、どんなに楽しいこともいつか終わりを迎えますし、そんな時には、楽しさよりも、寂しさや切なさをより強く感じるものです。それは、人生の中の様々な出来事にも当てはまるでしょうし、あるいは人生そのものにも……。

 

 

 

 

 さて、ここまでに書いたことは、決してこの曲の絶対的な唯一の解釈、というわけではありません。筆者がこの曲から受けた印象や、そこから自由に思考してみたことを、拙いながらも書いてみたまでです。

 

 

 この演奏を通して、皆さんにも何かしらの印象を与え、何がしか考えていただけたら、と思います。さらに少しでも筆者と共感していただけたならば、一人の表現者として、これ以上なく喜ばしいことだと思う限りです。

ひとりごと/近況

・暑くなってきました。一応まだ4月ですが、汗をたくさんかく身としては、本当に憂鬱な時期が始まったなという気持ちです。

 

 

スヌーピーのLINEスタンプには、「申し訳なさ」を示すものがないですね。たまたまでしょうか。

 

 

・たくさんの1年生が入ってくれましたね。本当にうれしいです。最近の合奏は、やることは多いし時間は足んないしで大変なんですが、1年生の方がもっともっと大変なんだろうな、と思うと、僕の「大変」なんてちっぽけなものだな、と。音程合ってないとかあってまだまだアレですが、やっぱ音厚くなってよいですね。これから1年生がのびていったらどうなるか、とても楽しみです。

 

 

・声が出ない日が何日か続き、身体的な感覚としてもう声が出ない気がする、と思ったのですが、数日前からけろっと声が出るようになりました。あっけないもんです。ところが、以前とはちょっと声が変わったような気もしますし、再度声が出なくなることがあるような気も、なんとなくします。

 

ひとりごと

 3つ。

 

 

 

・昨日、11時頃、夏の匂いがしました、春のそれではなくて。なんででしょうね&同じように感じた方いますか。

 

 

 

・最近、ある種の不安感に襲われることが多いです。「ある種の」というのは、例えば海で泳いでいて、あまりに海岸から離れてしまったとき、戻れるかどうかわからないという不安感、またはプールで、「顔を水に10秒間つけなさい」と言われたときの、できるかどうかわからないという不安感、または長距離走のとき、みんなに遅れずに、この長い距離を完走できるだろうかという不安感、そういうものです。何かしら、身体的な感覚に結びつくような、何らかの理由で「しなければならない」というようなものに対する、原初的とまでは言えないでしょうが、割に自分が幼い頃、小学生以前の体験を強烈に想起する、というようなもののようです。スコアを読んでいるときに感じる不安感のことです。毎日、スコアを開くときに感じる動悸は、どうやらカフェインの摂りすぎのせいばかりではないようです。

 

 

 

・全く反対のことのようですが、同時に、非常に大きな希望のようなものを感じます。とてもいい曲だと思います、こういう言い方が陳腐に思えるくらいです。僕は音感がないので、スコアだけでは音が分かりません。みなさんと譜読みしたときの音を頼りに、楽譜上の音符を音にして頭に描きます。他の曲だと、僕自身がこうしたいこう持っていきたいこう設計したいというのが思い浮かぶのですが、今はただ、楽譜上にある音(音符)に圧倒されて、自分の思考が塞がれている、そのくらいだというのが正直なところです。次の合奏が楽しみです。

吹奏楽のための第一組曲を「読む」

 結局更新できませんでした。備忘録的なもの。分割してないのでめっちゃ長いけど。

 

 

 まず一つ訂正しておかないことがあって、それは、「2度」の音程について間違ったことを書いていたんですね。配布したものの中の、「減2度」は「短2度」、「完全2度」は「長2度」と読み替えてもらわないといけません。こんな基本的なことも間違えているのか、と言われれば本当にその通りで、情けない限りです。まあ、そのくらいの人が書いているということで、気楽に読んでいただければと思います。

 

 

 さて、今回の演奏会で僕が指揮をさせていただく曲の中で、一番大きな位置を占める曲、いや、吹奏楽のレパートリーの中で、古典として地位を確立している曲、ともいえるのが、Gustav Holstにより1909年に作曲された『First Suite in Es for Military Band(吹奏楽のための第一組曲)』です。

 

 古典として地位を確立している、というのは、演奏する上では重要な意味を持ちます。日本の吹奏楽界でも人気の高いこの曲は、これまで幾度となく演奏されてきました。吹奏楽に関わる人なら、一度は聴いたことのある曲だと言って過言ではないでしょう。しかしその反面、いざ演奏するという段になると、これまでに聞いたことのある演奏に私たちの演奏が強く規定されてしまう可能性があります。

 

 結局のところ、そういった影響を完全に逃れることはできません。吹奏楽に限ることではないですが、長い間数多の曲が作られながらも、聴衆という存在がいる中で演奏されてきた結果、これまた数多の曲が淘汰されてきました。そうやってこの曲も歴史の検証を経ているわけですし、またその結果として、楽譜よりも先に演奏が、頭で考えるよりも先に耳からの情報が来てしまっているわけですね。

 

 しかしながら、楽曲を分析する、スコアを”読む”ことを放棄して、今までなされてきたある種の”模範とされる演奏”に倣って演奏してもよい、ということには当然ならないでしょう。私たちは表現者でなければなりません。他の人に描いた絵をトレースするのではなく、自分で見た景色を、自分で描かないと。

 

 ただ、じゃあこの景色、うまく描いてね、といきなり言われてもなかなか難しいものです。この文章は、例えば輪郭の描き方や、ちょっとした技法なんかについて、皆さんの理解するお手伝いになれば、というものです。

 

 とはいえ、曲の解説、自分なりの解釈を教えてあげよう!...などという上から目線のものではなく、トロンボーン吹きの端くれ(棒振り(棒使わないけど)に関しては端くれとも言えない)が、この曲のスコアを読んで、考えたことや思ったことを、せっかくなのでまとめてみるかーくらいのものです。気楽に読んでいただければ。

 

 ただ、一つ注意しておいてほしいことがあって、それはコンデンススコアの方を先に読んじゃうと、「?」となることがあるかもしれません、ということ。ホルストがスコアに記していることからも分かる通り、この曲の3つの楽章は、かなりの程度の関連性を持ちます。ですから、最初から全てを包括的に記述しようとすると、1楽章の記述が終わったら時点で、この曲の大半の説明が終わってしまう、みたいなことになってしまいます。3楽章までいってからやっと1楽章のこの部分が説明できる、みたいなことがあるんです。

 

 ちなみに、音名(階名?)の表記は全て実音(ドイツ表記?)です。念のため。

 

 

 

1. ”Chaconne”

 

 

 ・動機、主題、変奏

 

 ここからは、各楽章について詳細に見ていくわけですが、基本的な用語について知らなければ、何の話をしているのかわからないし、僕としても、そう言ったところを再確認しておきたいな、というところがあったので、ここで確認しておこうと思います。

 

 Chaconne, Intermezzo, Marchという各曲の形式なんかについては各章で触れることにして、まずは動機や主題といったことばたちについてです。僕も始めたばかりの頃は、動機、主題などといった言葉の周辺を毎日調べていた記憶があります(日常でも使うことばなので、慣れるまで時間がかかりますよね)。

 

 まず、動機(motiv)というのは、通常その曲の冒頭にある短い音群のことです。クラシック音楽であれば2小節であることが多いかと思います。この部分は、楽曲の音楽的特色や性格を左右するもので、楽曲中最も重要な単位になっている、とのことです。

 

 主題(thema)は、曲の中心となる、また特徴を形作る部分です。多くは動機の発展です。

 

 変奏(vatiation)というのは、主題のメロディ、リズム、テンポなどを様々に変化させたり、対位法的模倣を応用して発展させるなどの手法による、ということです。対位法的模倣というのは、反行(旋律の上下反転)や逆行(前後反転)を始めとする様々な技法のことを指しています。

 

 

 ・Suite

 

 それともう一つ、組曲(Suite)というものの形式についても見ておきましょう。バロックの時代には、「古典組曲」という形式がありました。仔細は省きますが、これは、4曲の舞曲によって構成されていて、その組曲の形式や拍子といったところまで大体決まっている、というものであるそうです。

 

 それが、時代が下り、ロマン派の時代になると、「近代組曲」というものが現れます。音楽に限らず他の芸術でも常だとは思うのですが、要するに形式や規則に縛られないものとなります。~~1曲で組曲を構成~~標題に関する曲を自由に集めて~~自由になっていきます~~(例)。

 

 この曲が書かれたのは、1909年。当然のことではありますが、別に古典的な形式がこの組曲に色濃く影響しているわけではないのだ、ということですね。

 

 

 ・音程の話

 

 まず、よく聞く話かもしれませんが、「音程」というのは「ピッチ」と同義ではなくて、「音の幅」のことなんだ、ということですね。ただ、吹奏楽で基準音として使っているBの音からの幅、という意味なのか、はたまた特に意味はないのか、ピッチという意味でよく音程ということばは使いますね。

 

 さて、ここからは3度、5度とかいったことばについて。詳細に説明し始めると相当な字数を割いてしまうことになるし、そんなことはこの記事の趣旨ではないので、多少の正確さは犠牲にして、超簡単に説明します。カッコ内は、B-durだったら、Bとどの音が対応するか、ということです(左側よりも右側が高く、完全8度よりも離れた音程ではないということで…)。

 

 完全1度…その音と同じ音。(B-B)

 短2度…半音1つの差。(B-H)

 長2度…半音2つ(全音1つ)の差。(B-C)

 短3度…半音3つの差。(B-Des)

 長3度…半音4つの差。(B-D)

 完全4度…半音5つの差。(B-Es)

 完全5度…半音7つの差。(B-F)

 短6度…半音8つの差。(B-Ges)

 長6度…半音9つの差。(B-G)

 完全8度…半音12この差。1オクターブ。(B-B)

 

 (参考までに、半音階を書いておきます…)

 

 B-H-C-Des(Cis)-D-Es-E-F-Ges(Fis)-G-As-A-B

 

 

 ・Chaconne

 

 前置きが長くなってしまいました。まず、シャコンヌというのは、「3拍子の舞曲であったが、17世紀に器楽曲として発達した」ものです。そして、より重要なのは、「パッサカリアによく似て、和声を重んじた8小節の低音主題(basso ostinato)が絶えず繰り返される変奏(variation)の一種」であるということです。

 

 

 ・ostinato

 

 オスティナートというのは、「ある一定の音形を、同一声部、同一音高で連続反復」するものだそうです。で、このオスティナートというのは、この1楽章で言えば、当然冒頭の8小節間にあたるわけですね。

 

 しかしながら、主題の反復に関して、「ある一定の音形」というのはいいとして、「同一声部、同一音高」かと言われると、いろいろな楽器が担当しているわけですから、当てはまるとは言えませんよね。組曲でも少し触れたように、当然ながらこの曲は、こうした形式に完全に則って書かれた曲ではないのです。

 

 しかしながら、変奏を伴いつつも(しかも、実は主題そのものの性格が変わる変奏は意外に少ない)、この主題が常に曲を支配していることを考えると、シャコンヌの形式は、完全とはいえなくとも、比較的重んじられているのだろう、と感じます。

 

 

 ・楽章の概観

 

 さて、ざっくりとこの楽章を概観してみましょう。

 

 冒頭:主題の提示、盛り上がり

 B:前半の山場

 C-D:停滞

 E:再びの集合と盛り上がり

 F:フィナーレ

 

 

 ・シャコンヌの主題

 

 さてさて、まずは動機から見ていきましょう。(合奏でもお話しした通り、)この曲の特徴を形作る最小単位としての動機は、一番最初に示される3音、Es-F-Cという音列です。つまり、長2度の上行、完全5度の上行の組み合わせですね。

 

 

 ・少し脱線、本当にこの単純な音群が動機といえるのか?という疑問

 

 といったところで、こういった音列はどんな曲のどんな場面にも出てくるのであって、この曲固有の動機だと言えるのか、たまたまじゃないのかと、懐疑的な態度を取る人もいると思います。(余談ですが、最近の吹奏楽曲なんかは、団体名や地名、人名から取っているものがけっこう多いなあ、という印象があります。有名なバッハ主題(Bachの名からB-A-C-Hの音列)もありますが、そういった曲ばかりなのもどうなんでしょうね…。)私もそんな風に思ったりすることがあるのですが、こういう風に考えていつも納得(?)するようにしています。

 

 例えば、曲を構成する要素というのは、まずは時間という横の軸があり、それに対して音高という縦の軸があります。言ってしまえば、どの時刻にどの音高が書かれているか、ということが曲を決定する要素になります。例えば、単純化して、一つの声部のための、四分音符単位の音符のみによって構成されている、音高以外の変数は全て固定されている曲があったとします。常識的なテンポ、長さの曲で、ある程度楽理に則っているとして、それでもやはり相当な可能性、パターンがあると思うんですね。その中で、なぜその音の組み合わせでなければならなかったのか、そのかなりの部分を決定するのが動機だと思うんですね。

 

 もっと分かりやすく言えば、こういうことかもしれません。何百人、何千人という作曲家が応募する作曲コンテストがあったとして、何も条件がなければ、それは当然多種多様な曲が送られてくることでしょう。しかし、もし「この音群を動機としなさい」とか「この音列を使いなさい」という条件が指定されていたならどうでしょうか。当然、作曲家によって様々な曲を書くことでしょうが、その曲の中に、似たような部分、断片がある、ということが、1つや2つと言わず起こるのではないでしょうか。変奏には様々な方法があるとはいえ、その引き出しは限られている、ということは、前に触れたとおりです。もしくは、送られてきた何千という曲をずっと聴いていると、なんだか似ているな、と、これは確実に感じることになるでしょう(別の曲のはずなのになんだか同じに聞こえる、そんな作曲家もいたような気もしますね…。曲そのものは決して嫌いではないのですが)。そして、それはおそらく、何も指定がなかったとすれば、起こり得なかったことです。

 

 そう、なんか似ているな、と、顕在的に思わせるところまではいかなくとも、その動機を聴衆に印象付けなくてはならないのです。断片的に動機が出てくる部分には、必ずアクセントが付けられています。それは、ここまでの話で分かる通り、曲の性格を決めるのは動機だから、さらに言えば、動機が聴衆に伝わらないということは、この曲が聴衆に伝わらないということになるからなのです。

 

 

 ・動機の出現

 

 さて、脱線してしまいましたが、先を見ていくと、この動機がさまざまに変容して、随所に現れます。まず主題。冒頭3音は明らかに動機ですが、2音目から4音目のF-C-Bも、長2度と完全5度の組み合わせです。当然、その順番、上下行の関係は変わっています。その後のEs-F-Bもですね。スラーで繋がる4小節が終わり、次の4小節の最初の3音、G-C-Dは、G-Cが完全4度ですが、やはり動機の発展した形となりますね。その後のC-D-G、D-G-Fもこの組み合わせです。主題を締めくくるG-F-Bという音も、長2度と完全4度の組み合わせですね。そのせい(とB音で終わること)もあり、主題には終止感が欠けます。B音が次の主題の始まりであるEs音を導くのですね。

 

 この曲の始まりであり、曲全体を支配することとなるシャコンヌの主題は、動機に負うところが大きいのですね。

 

 しかしながら、動機が変容して登場する回数(その多彩さ?)という意味では、シャコンヌは他の楽章ほどではありません。あまりに主題の支配が強くて、別の言い方をすれば形式に影響されて、主題の変奏を除くと動機は現れないのですね(そしてその変奏も、そう多くは登場しないのですが)。

 

 さて、ここからは主題の変容を軸としつつ先に進んでみましょう。このようにして最初の8小節で主題が提示されたのち、9小節目からはトロンボーンが主題を演奏し、コルネットも動機を含むフレーズを演奏します。9-10小節目のEs-F-C、12-13小節目のAs-B-Es、13-14小節目のEs-F-Bと、まるでトロンボーンの主題を追いかけるように主題が登場します。

 

 練習番号Bに向かっては、徐々に層が厚くなり、音が積み重ねられていくのが感じられます。Bより前というのは、強弱以外は主題自体は不変です。B(からの8小節間)では、主題が初めて変奏されます(と言っても、変奏は先述の通りそう多くはないのですが)。Bでは全ての音が8分音符となります。しかし、音高、リズムはやはり不変です。

 

 ここまでの40小節の積み重ねは、しかしCの直前の2小節で急に弱まります。Cも、途中までやはり冒頭と変わりません。

 

 CからDは停滞感、閉塞感が漂う場面ですね。ここでも主題の変奏がなされますので、それを見ていきましょう。

 

 

 ・主題の反行形

 

 73小節目(Cの17小節目)からは、主題の反行形が登場します。反行形というのは、主題の音高の上下が逆転したフレーズということです。ただし、最後の2音は主題だと完全4度(F-B)であるのに対し、ここでは完全5度(D-G)となっています。

 

 ここに関しては、和声的な要請なのかな、と考えられます。1楽章は当然Es-durで始まるのですが、この部分は明らかにC-mollですね。

 

 詳細に説明するのは難しいのですが(というか僕もどこまで理解しているかと言われると微妙ですが…)、ざっくり言えば、「旋律と和声は対立する関係にある」という事実があります(「対位法と和声法は対立関係にある」ということです)。これは例えば、次のような事例から理解することができます。ある曲のある瞬間において、旋律が長三和音の第三音を担当しているとき、(その長三和音が調性におけるどの役割の和音かという問題は考えないとして、)和声を重視する(=和音が濁らないことを重視する)ならば、この音をやや低く取らなければなりません。が、そうした調整をすると、旋律の面からは変に聴こえてしまうことも少なくないでしょう。横向きの時間軸に対して、和音は縦の音の並び、旋律は横の音の並びです。対立して当然なのですね。

 

 そうすると、完全に旋律のことばかり考えていると、つまりここで完全な反行形をつくってしまうと、最後がA音で終わってしまうことになります。C-mollの和声的短音階にA音が含まれていないことからも分かるように、これはC-mollには”馴染まない”のです。それを解消するため、主音のC音に対して完全5度上のG音でこのフレーズを締めくくったのではないでしょうか。ちなみに、冒頭の主題を締めくくるB音は、Es-durの主音、Es音の完全5度上です。もう少しだけ言及するならば、冒頭の主題とこの反行形は、同じEs音から始まっている一方で、1小節目の1拍目(2音目)は、それぞれF音(Es-durの主音の2度上)と、D音(C-mollの主音の2度上)、つまりそれぞれ主音の長2度上になっています。

 

 さて、Dのフレーズは一見その直前と同じなようです。音高は全く同じですが、リズムが変わっている部分があります(85,86小節目、Dの5,6小節目)。これは、Dから伴奏に2拍子的な動きが登場したことに”引っ張られ”たのだと考えることができます。実際、この伴奏の中で直前と同じフレーズが演奏されることを想像すると、少し違和感を感じます。

 

 Dの後半8小節では、冒頭の主題の開始音の長3度上、G音から開始される変奏です。しかし、最初の音を長3度上げた後は調号に従うので、全ての音が長3度上がっているわけではありません。各音の幅は保たれず、音程が変わったことで緊張感を生みます。(このような言い方が許されるなら、やや”気持ち悪い”主題の変奏となっていますね。)調性も平行調(C-moll、平行調とは、調号が同じである長調短調の関係のことで、ある長調の主音の短3度下の音がその長調平行調の主音となります)に移ることにも言及する必要がありますね。

 

 

 ・E、明らかに示される方向性

 

 さて、CからDにかけて、反行形が登場してからの部分は、音楽が”沈滞している”とでも言いましょうか、土の上を這うかのような重苦しい雰囲気がありました。それが、このEから奏される主題のアウフタクト、Esの一音で、一筋の光が見えます。安心感が感じられるといってもいいかもしれません。道に迷っているときというのは、この上ない不安感や焦燥感を感じますよね。しかもその人間が、立ち止まるのを許されていないとしたら?(音楽は止まることなく進んでいきます。)しかしその中から、正しい道へと戻るための、または目的地へと向かうための手がかり(それは「最初に、出発する時に教えられた」)が見つかったら、それは建物か道か標識か、近づいて全体像を見ることがなくとも、看板の文字、壁の色、その特徴の一つでもちらりと見ることができれば、誰でも安堵と期待の入り混じる感情を抱くことでしょう。

 

 こうして、迷走していた音楽が再び集合し、明らかな方向性を持って進んでいくこととなります。Eからはあまり説明が必要ないでしょうか。主題が一度pで、もう一度、次は盛り上がりを伴って奏されます。そして、F、主題がMaestosoで奏されます。そしてFで圧倒的なフィナーレを迎え、楽章が閉じられます。

 

 

 ・フィナーレ、最後の和音の妙

 

 122小節目(Fの9小節目)からは、コルネットトロンボーンによって、主題の開始音が5度上がった形の変奏が奏されますが、123小節目(Fの10小節目)の臨時記号のついたDes音に象徴されるように、ややmollの響きのする、”不完全な”主題と言えます。さらに、その他の全ての楽器が、ffのtuttiで付点2分音符(もしくはそれにタイがついた音)を奏している中では、もはや主題が音楽の核になっているとは言い難いような様相を呈します。主役はそのtuttiの方だ、という印象も受けます。

 それでも健気に(?)主題は続いていくのですが、127小節目(Fの6小節目)3拍目からの登場するEs音のアクセント、(瀕死の)主題から主導権を奪おうとします。そして、いつの間にか主題は吸収され、最後には圧倒的なEs-durの和音で曲が閉じられます。いや、「閉じられる」という表現は当てはまらないのではないかというほど、希望に満ち溢れすぎて眩しいといった具合の明るさで、これは主に高い音域で奏される音が多いことによると思います。

 

 しかしながら、希望に満ち溢れていながらもなお”白痴的でない”ように聞こえる、能天気な和音に感じないのは、構成音のバランスが”悪く”、三音が少なく、主音と五音が圧倒的に多いからです(なお、その中でも特に主音が多く、五音のB音はピッコロ、フルート、ソロクラリネット、1番クラリネット、2番コルネット(div.)の下のみ。三音のG音に至っては2番クラリネットのみで、他は全てEs音です)。

 

 もう少し言及するならば、バランスがいい三和音だと、全方向的に響きが広がると言うべきか、球のようなイメージに近いという側面があると思います。しかし、このようなバランス、しかも音が相対的にはっきりと聞こえる音域だと、方向性(これは練習番号Eからのキーワードとなっていると思います)が見えるんですね。

 

 ただ、じゃあ完全に5度だけでいいかというとそういうわけではなくて、2番クラリネットのG音は非常にいい仕事をします。少しだけ、”音の口角が上がる”んですね。5度だけだと、ちょっとこわいというか、荘厳な感じが強すぎて、圧倒されてしまうような感じなのが、この音が入ると、近寄りやすくなると言ってもいいかもしれない。

 

 

 

2. “Intermezzo

 

 

 ・楽章の概観

 

 まず、Intermezzo(間奏曲)は、劇やオペラの幕間の音楽が独立したもので、器楽曲の小品の名称にすることがある、とのことでした。

 

 さて、曲の方を見てみると、ざっくりといえば

 

 α-β-α-Γ-α-Γ’

 

 という形になりますね(構造を分かりやすくするためα、β、Γと名付けましたが、この楽章では多用しません。次の楽章ではたくさん使いますが。ちなみにギリシア文字を使っているのは、英字アルファベットだと練習番号と混同してしまうからです)。αというのは、3小節目から24小節目までの4分の2拍子の部分。βはAの3小節目からの、短い経過部かと思われるような部分です。Γというのは、L’istesso Tempoで、4分の4拍子に移り変わって奏される部分です。αとΓには、シャコンヌの主題に由来するフレーズが登場します。

 

 さて、αの主題を見てみると、初っ端から「Es-F-C」の動機が現れます。しかし、その後はシャコンヌの主題をなぞるのかというと、そういうわけではありません。

 

 

 ・音楽における”対比”

 

 音楽のみにおけることではないでしょうが、音楽には常に対比、コントラストというものがついてまわります。長調の和音の響きが心地よいからといって、ずっと長調の和音が鳴っていたら、曲になりませんよね。もう少し言うと、あまり聴いてて楽しくないんです。それは、例えば「美味しいものばっかり食べてたら飽きちゃうよね、それと同じで」ということではない、決定的に違うんです。

 

 他にどういう対比があるかというと、例えば、特に吹奏楽においては、多彩な音色が現れるのが特徴であって、常に同じ楽器が旋律を担当していると面白くないですね(常に伴奏というパートはありますが…笑)。リズムも、常に四分音符というのでは、やはり厳しいですね(これらはやや極端な例ですが)。

 

 さて、1楽章と2楽章を見比べて、または聴き比べて見たときに、それが意識されたものなのかどうかはわかりませんが、共通項よりは対比が強調されているように感じられます。まずテンポ。1楽章はAllegro Moderatoとなっていますが、古典的な演奏会用の作品として認識されており、また野外ではなく室内で演奏される昨今では、AllegroよりもModeratoを意識した解釈に基づく演奏も多いと感じます(私もそうだと思うのですが…)。拍子も、3拍子が2拍子に変わります。アーティキュレーションも、legatoやslurから、accentやstaccatoの指示に変わります。そして、何より大きいのは、「自由の有無」というか、まあそういうものです。

 

 1楽章では、割にシャコンヌの様式に則っていたりだとか、動機によるところの大きい主題があったりだとか、またそこまで自由な変奏や曲想の変化がないこともあり、”自由があまりない”と言えると思います。2楽章も、当然則るべきものには則っていると思いますが、1楽章に比べて即興性、意外性を感じるのは私だけでしょうか。例えば、1楽章では、2楽章のBやCのように、拍子が変わったり、曲想が変わったり、突然層が薄くなったり…ということはありません。変奏が行われる場合にも、(これはテンポに負うところも大きいのですが)突然ではなかったり、予定調和であったりします。曲の最後も、Es-durをffで強奏する1楽章と、C-mollを(そう、調もEs-durの平行調であるC-mollに変わっています)8分音符のstaccatoをpppで、しかも弱拍に奏する2楽章と、といった具合です。曲の閉じ方は特に象徴的な部分ですし、わかってもらえるかな、と思います。

 

 で、それは、結構αのフレーズには出ているかな、と思っていて、というのは、動機に相当依拠していたシャコンヌの主題に対して、このフレーズは、主題を与えられたのちには、まるで即興演奏をするかのように自由に飛び回る(ように感じられる)からです。

 

 また、ところどころに動機が登場しているようですね。例えば、αの2回目、練習番号Bの部分では、3-5小節目に、低音によってB-D-Cという音列が8分音符で奏されますね。4小節単位でこの動機が現れます。

 

 

 ・β

 

 βの部分というのは、後述する”マーチのβ”の部分と似ています。もっと言えば、このIntermezzoのα、β、Γ自体、3楽章と共通するところがあるのですが…(後で、マーチの部分と比較してみてください)。このβの部分で言えば、2小節単位で、[リズム]+[動き]となる点が共通していますね(後述しますが、マーチだとやはり[リズム]+[下行動機]となります)。

 

 

 ・C、第二のフレーズ

 

 先ほどはΓと名付けた部分、Cに入ると、拍子が4拍子となり、横の流れの感じられる旋律が登場します。4小節を一つのまとまりと見ることができ、Cの16小節が演奏されると、Dからの16小節はこれをなぞって演奏されます。

 

 このCのフレーズは、シャコンヌの主題にかなり影響されていることは、すぐにわかると思います。しかしながら、ある要素が付け加えられたことで、シャコンヌの主題とは決定的に違う印象を与えるフレーズとなっています。それが、2度の連続による上行/下行音形です。平たく言えば、スケールの一部ですよね。これは、先に言ってしまえば、3楽章のマーチでも多く登場することとなります。これも2つ目の動機と言えるかもしれません。それほど印象的に登場します。

 

 では、このCのフレーズの中ではどのようにしてその動機が登場するのでしょうか。まず、Cの2-3小節目に、C-D-Esという上行音形、Es-D-C-Bという下行音形が登場します。4小節目にも、G-F-Esという下行がありますね。他にもCの12-13小節目のB-C-D-Es-Fなど、いくつか似たような形で登場します。

 

 マーチとの関連ということで言えば連続2度の上行/下行なのですが、インテルメッツォのCのみについては、特に下行音形が印象に残りますね。まずCの3小節目のEs-D-C-Bではっきり示されるのですが、4小節目は、連続2度だからといってG-F-Esのみで取り出すのもよいのですが、B-G-F-Esでひとかたまりと考えると分かりやすいですね。つまり、前の小節の模倣なのです。連続2度ではないのですが、4音での下行形です。

 

 マーチの章で述べるのですが、この主題の完成形(?)のようなものは、5つの音が連続する上行/下行です。なので、3音の連続が動機の発展だと解釈するのも当然間違いではないと思うのですが、上のように解釈するのがより自然な気がします。そうすると、Cの9小節目も、連続2度と考えるよりも、4音の下行形と考えると腑に落ちませんか。これは、スコア上で見るより、実際に聴いてみたときにより感じられます。全部小節頭に来ていますから、より印象が強まるのですね。

 

 

 ・ここで一旦脱線。シャコンヌを見てみよう

 

 このスケールというのは、特に木管楽器には頻繁に出てくる音形なので、連続2度が出てきたから直ちにどうこうというわけではないのですが、それでも1楽章にはこの音列が印象的に挿入されています。

 

 順を追って見ていくのも無粋ですが、やはり冒頭、9小節目からは無視することができませんね。特に1番コルネットは、先述の通り動機も演奏するのですが、この8小節の終わり、15-16小節目のD-Es-D-Es-Fという音列が非常に印象的に奏されるわけです。この動き、2音、3音と音が増えていく感じ、そして、半音のもどかしい動き(D-Es-D-Es)から奏される全音(Es-F)は、偶然の産物ではないと思います。ここから音楽が展開していく、広がっていくということが(音の幅の広がり、半音のもどかしい往復が全音の上行で終えられるということによって)暗示されると同時に、この連続2度の動きを強く印象付ける、そのさきがけがここに現れているのですね。

 

 この後も、17小節目からのクラリネットがしきりに下行音形を演奏したり、Aの前からは3音の上行形が繰り返されたりと、ところどころに上行/下行動機が登場します。Fなんかはかなり印象的ですね。他にもあるので、コンデンスで見てみてください。

 

 

 ・模倣、終曲

 

 101小節目(Dの19小節目)からは、練習番号が振られているわけではないのですが、冒頭からの流れの模倣です。ただ、βの部分はありませんから、短くなっています。Fは、Cと同じフレーズによって始まりつつも、様々な要素の断片が登場します。そして音量は落ちていき、pppで曲が閉じられます。

 

 ・どう曲を閉じるのか?

 

 さて、この最後のあたり、morendoの指示について少し考えてみましょう。そもそも、morendoの指示があれば、演奏する際はdim.とrit.を同時にすると解釈するのが通例です(日本語では「消えるように」と表現するのが多く、確か語源は「死ぬ」という意味だった)。しかしながらスコアには大きくSenza rit.と書いてありますから、この時点でちょっと変だな、となるわけです。よくあるmorendoではなく、dim.のみをやりつつ、「消えるように」「死ぬように」という表現をするのだな、という解釈をすることになります。

 

 しかしながら、(作曲者は別の意図を持っているのかもしれませんが、)どうにもこの2楽章を「死ぬように」閉じる、というのは、しっくりこないような気がします。日本語のニュアンスの問題でしょうか。

 

 そこで、morendoからはいったん離れて、音の方に目を(耳を?)向けることにしましょう。Fは16+4という形になっています。Fの冒頭では、旋律はCと同じように振る舞っているかのように思えますが、最初の2音が落ちているのと、全ての音が3度下がっています。それでも健気に(?)Cと同じように振る舞おうとするのですが、Fの4小節目では、βの断片、6小節目では冒頭の断片がじゃまをします。その2つが交互に登場しつつ、Fの14小節目からはmorendoの指示が入り、Fの17小節目からは、この曲の動機も顔を出します。そして、断片的な動きが続き、最後は8分音符の弱奏で曲は閉じられます。

 

 少なくとも、僕のイメージだと、何かの生き物(ヒトでもいいですが)が死ぬときのように、生きようという意志を持ちながら、苦しみながら死ぬ、という感じではないですね。まるで、「命を持たないものが死ぬ(消える)ような感じ」、例えばティンカーベル的な(?)、妖精のようなものがぱっと消える、もしくは、石切りをするように、水面すれすれを(時々その水面に跳ねながら)飛び回る星が、突然光を散らしてぱっと消えるような、そういうイメージだと思います。

 

 

 

 

 

3. “March”

 

 

 ・マーチ

 

 マーチというのは、芸術音楽としては16世紀頃から発展を遂げ、18世紀から19世紀にかけては、トルコ行進曲やラデツキーマーチなど、Pianoやオーケストラの名曲が作られました。そして、19世紀以降は、主に軍楽隊、吹奏楽の曲として発展していきます。

 

 形式としては、trioを持つ複合三部形式で、2拍子が多いそうです。

 

 

 ・複合三部形式

 

 複合三部形式というのは、三部形式の派生したものだそうです。では三部形式はどういうものかというと、ざっくりいうと「A-B-A(‘?)」という形式のものです。それが、複合三部形式になると、A=「a1-a2-a1」、B=「b1-b2-b1」のようなまとまりが、「A-B-A」のような構造をとる、入れ子のような形になっているそうです。そして、この「B」の部分を、マーチでは一般にtrioというのだそうですね。

 

 

 ・楽章概観

 

 さて、例によってこの楽章を概観してみると、

 

 α-β-α

 =Γ(Γ-Γ’-Γ’) (trio)

 =α’-β’

 =[α-β-α]+Γ

 =Coda

 

 ということになるでしょうか(短い経過部は省略しています)。

 

 さて、αというのは、マーチの主題ともいうべき、5小節目からの4小節が2つの連結されて形作られる部分ですね。そしてβは、リズムを提示する2小節と下行音形を見せる2小節がまとまって、4小節でひとまとまりになっているようですね。trioとなるΓでは、シャコンヌの主題の影響が大きい旋律になっていますが、下行動機の要素もあります。その後、αやβの発展が続いた後、マーチの主題とトリオの主題が重ねられ、フィナーレへと向かいます。

 

 

 ・冒頭、マーチの主題

 

 まずは冒頭。冒頭から、Es-D-Gと下行する形で動機が登場しますね。Es-Dと長2度でないことが、緊張感を増しているようです。そして、3-4小節目では、拍頭のみに音が置かれ、2分の2拍子であることが強烈に意識されます。

 

 5小節目から登場するマーチの主題を見てみましょう。主題の最初の3音はG-F-C、長2度と完全4度の組み合わせですから、おなじみの動機の発展形ですね。この動機は他に出てくるのかというと、主題の2-3小節目のAs-G-C、3-4小節目のB-C-Gというところですが、正直、ここに登場する動機は偶然かな?と思うほど、強調された書き方ではないですね。下行/上行動機はどうかというと、主題の2小節目、6小節目に登場します。

 

 動機も登場するにはするのですが、今まで見てきたフレーズほど色濃くはないですね。このマーチの主題に関しては、これで割と独立しているような印象があります。

 

 

 ・β、リズムと下行動機

 

 13小節目からは、先述の通り、リズムと下行動機で構成されます。最初の2小節では、この先でも執拗に登場することとなるリズムが、次は4音での連続2度の下行が、これも執拗に繰り返されます。後半の途中からはずっと下行が続き、リズムと下行が共に奏されたのちに、4音の連続3度の下行があり、この部分が終わります。この最後の音列も、連続2度下行動機の発展と言えるかもしれません。また、Intermezzoのβの後半2小節(Aの5-6小節目など)とも似ていますね。もう少し言うと、ChaconneのAからの木管の動きもこれと似ていませんか。考えすぎですかね。そういえば、先述の「IntermezzoとMarchのβの部分の共通点」、分かってもらえたでしょうか。

 

 仕組みとしても、あまり難しくないですね。

 

 

 ・trio

 

 Es-durで進んできた3楽章ですが、37小節目でAs-durへ転調します。楽譜上でもそうですし、金管楽器によるAs音とC音の強奏、それに続く低音のAs-durの下行スケールの断片が、下属調への転調を強く印象付けます。

 

 さて、トリオは、8小節をひとまとまりとして構成されています。その8小節が繋がって16小節、というのがさらに大きなまとまりで、この16小節を一つの単位とすると、「概観」のところで括弧書きにしてあるように

 

 Γ-Γ’-Γ’

 

 という形になります。ただ、イメージとしては、最初のΓ-Γ’が大きなまとまりとしてあって、完結しても良かったところに、もう1つΓ’がついてきた感じです。[Γ-Γ’]-Γ’とでも書けばいいでしょうか。

 

 まず、Γの前半8小節は、印象としてシャコンヌの主題にかなり似ています。これは、音高の問題が大きいですね。特に最初の4小節は、下行動機が登場しながらも、シャコンヌの音の流れをかなりなぞっています。調は違いますが、最初4音は全く同じですし、その後C-As(Es-durではG-Esにあたりますね)と音をなぞって、フレーズの終わりもEs音(As-durでは第五音ですから、Es-durではB音に相当)で同じですね。しかし、ここから4小節は上行音形を見せつつ、後半へ向かいます。

 

 後半は、ざっくり言えばAs-G-F-Es(-C)を2回繰り返しているわけですね。下行動機を強調しています。

 

 Γ’の前半はどうかというと、これもざっくり言ってしまえば、上行下行を繰り返しつつ、この動機の完成形(?)である、5音の上行へと持っていくわけですね。今まで4音だったり3音だったりして、ちょっと不完全燃焼感がありました。それがここで解決するわけです。

 

 

 ・少し脱線、なぜ4音では不完全なのか?

 

 5音の上行/下行が完全形だというのは、曲の最後を聴けば明らかにそう(後述)、ということで、考える順番が逆転しているようにも思います。ですが、このトリオの主題を聞いていると、明らかに4音連続よりも5音連続の部分で安心感?のようなものを感じるのも事実だと思います。

 

 例えば、冒頭のリズムと下行の繰り返しとなるβの部分。最初は4分音符が4つ連続ですから、完結感がないですね。しかしその後、マーチの主題が再開する直前、4分音符が5つ続くと、完結したな、次に行こう、となるわけです。

 

 改めて言及することでもないのかもしれませんが、4分の4拍子の中で、4分音符が連続で5つ、小節の1拍目から次の小節の1拍目まで奏されることで、完結した感じというのが生まれるんですね。それが4つだと、なんだか不完全な感じが強いです。4分音符のみのフレーズに限らず、他の場所を見てみると同じことが言えると思います(コンデンス見てみてください)。そのやりとり、駆け引きみたいなものがありますね(それは和声にも同じようなことが言える)。

 

 さて、Γ’でしたね、後半は、Γの前半と同じようなことがあり、最後は主音のAs音に戻ってきます。

 

 しかし、1度目のΓ’ではこれで終わりとはいかず、そのAs音にかぶせるかのようにΓ’がもう一度奏されます。

 

 

 ・αとβの模倣

 

 起承転結で言えば転の部分に当たるのがここですね(起=冒頭、承=トリオ。結は言わずもがな)。まずは89小節目のアウフタクトから、マーチの主題がpで奏されます。が、8小節できれいに完結するわけではなく、不安そうな動きを見せたところにこの曲のモティーフが、C-D-Asという、少々不気味な形で挿入されています(D-Asが減5度ですね)。

 

 Cからは、βの模倣となっていますね。最初の8小節間は、形式としては完全にβの模倣、そこから4小節間は、リズムと下行動機の交替が2小節ずつだったのが1小節ずつに変わり、緊張感が増しますね。

 

 109小節目(Cの13小節目)では、調をEs-durに戻してβの模倣です。ただ、下行動機ではなく、この曲のモティーフの下行形が奏されます。最初の4小節ではEs-D-Gという形。Es-Dと短2度(半音)になっています。次の4小節で登場するのは、F-Es-Gで、Es-Gが短6度。緊張感が増していっているのが感じられます。次の4小節では、前半に下行動機が、後半にはC-G-F-C-G-F-Cと、モティーフが連続して奏されます(C-G-F、G-F-Cの組み合わせ)。その上では、119小節目(Dの4小節前)からC-D-Es-Gという形で、上行形が非常に印象的に奏されます。そして、121小節目(Dの2小節前)では、As-durの長七の和音(Es-durの下属和音)の強奏、これで完全にEs-durへ戻ってくることができますね。

 

 

 ・マーチの主題とトリオの主題

 

 1楽章からの積み重ねがここで解決を迎える、といった感じですね。Dからは、マーチの主題とトリオの主題が同時に奏されます。マーチからの主題はそのままβのリズムも演奏しますが、下行動機は装飾的につけられた3連符によって躍動感を増しています。

 

 マーチの主題は、αの主題が8小節、リズム/下行動機のβが16小節でα-β-α、つまり小節数で言えば8-16-8ですから、合計32小節。対してトリオはΓ-Γ’-Γ’、それぞれ16小節ずつで合計48小節ですから、α-β-αとトリオが同時に奏されると、トリオの最後16小節がはみ出すことになりますね。この16小節が、また印象的に奏されますね。特に後半8小節はMeno mosso、fffで壮大にトリオの主題が奏されます。

 

 そして最後はPiù mosso、なんとffff。βのリズム、この曲のモティーフが登場し、11小節を駆け抜けます。

 

 なんだか、この後腐れない感じ?がちょっと好きだったりします。なんだか不思議な気がしませんか?これまで結構な紙幅を割いて見てきた、シャコンヌの主題やそれに影響を受けたトリオの主題、そしてこの曲の主題であるマーチの主題は最後の最後には登場しないんですね。モティーフが顔を見せるのはまあそうなんですが、一番最後に登場するモティーフらしきものというのは、トロンボーンユーフォニウムによるD-C-G-As-Bという音列で、完全な形というわけでもないんですね。それに、最後に主役を張っているのは、さっきまで脇役扱い?な感じだったβのリズムのようです。

 

 快活で爽快(爽快というのはちょっと違う感じがあるけれど)なのに、少しの寂しさを感じてしまうのは僕だけでしょうか。

 

 まあ、でもそれでいいんですね。友人との話は尽きないものだとは言いますが、本当に尽きてしまえばおしまいなんですね。ものすごく熱中して話し込んでいたのに、電車の時間だから、と言って、すっと帰ってしまう人、僕は嫌いではないです(何の話?)。

駒場祭を前にして

 アカウント名を変えて久しいですね。虚無おじさんです。寒かったですね。いよいよ、明日から駒場祭です。

 

 

 駒祭に向けては、各所で相当前から準備がなされてきたと思いますが、僕がみなさんと直接関わるのは演奏なので、その意味では8月末に始動したということになるでしょうか。それから約3ヶ月弱、僕が一番力を入れたのは、サウンドの改善です。

 

 

 

 1年生が加わった状態で自分が曲を振り始めた夏休み明けの時期は、正直サウンドとしては新歓演奏会を上回ることはないな、と思っていました、失礼な話ですが(新歓の頃はとてもいいサウンドだったと思いますが、3年生に頼っていたのですね)。それくらい悲観すべき状況でした。

 

 

 チューニングにしても、これは僕が引退するまでの向こう1年半で合うことはないかもしれない、くらいに思っていましたが、演リーを中心にパートチューニングをしてくれたり、もちろん個人でもよくチューニングしてくれたり、ということもあって、かなり改善されてきています。あまり気づいていない人もいるかもしれませんが、上手くなってるんです、ほんとうに。

 

 

 そして、その土台の上で、最近は、(実感している人もいると思いますが、)新歓の頃とはまた違った方向のサウンドが見えてきています、奏者が違うので当然のことなのですが。そして、これはこれで、なかなかいい方向に進んでいっているという実感もあります。最近の音、ほんとうにいいと思います。

 

 

 

 そうしてつくられた音が、演奏会で日の目を見る、それが僕はとても楽しみです。音だけではなくて、というのは駒祭の宣伝文でよく見かける文句ですが、これもほんとうにそうです。すてきな装飾、センスあるデザインのビラや立て看板、映画祭といえばこれでしょう、という譜面紙、演奏会を形作るピースの1つ1つが、とても大切に感じられます(いとおしい、と書いたら少し気持ちわるいかなと思い自重)。

 

 

 

 後悔のないように、というと後ろ向きな感じがしますが、いい演奏会にするために、まだできることはあります(まずは体調管理から…!)。明後日の今ごろは2次会突入しちゃってるんですね、もうブラアカ映画祭!終わってるんですね。そこまでアクセル踏みっぱなしです。

 

 

 

 明日、明後日、楽しみましょう。いい演奏会にしましょう。

ブラアカに対する姿勢について、思ったこと

このサークルに対してどのような姿勢を取ればよいか、というのは、一度は考えたことがあるのではないでしょうか。僕もよくこの問題(?)に悩まされるのですが、コンクールの奏者アンケートに目を通したことをきっかけとして、考えをまとめるべきだな、と思い、今までの断片的な思考を整理することにしました。こういう立場でやってます、という表明でもあるかもしれません(?)

 

 

 

 

 

まず、音楽サークルである以上、演奏会に聴きに来てくださる方々がおられる以上、質の高い音楽を目指さなくてはならない、というのは前提条件だと思います。

 

 

 

正直、例えば今回の駒場祭演奏会だと、なんとか通るぐらいの演奏でよければ、3,4回も練習があればなんとかなります。譜読み合奏して、落ちそうなところを確認すればいいので。あとはゲネをやって流れを確認すれば、2週間で音楽”のようなもの”ならできますし、演奏会もできます。

 

 

 

 

でも、それでいいと思う奏者はほぼいないでしょうし、聴衆は言わずもがなです。いい演奏をするために、合奏でいろいろと指示を出すわけで、これは許容してもらわないといけないと思います。

 

 

 

 

 

じゃあ練習は毎回参加必須か、というと、それは全く見当外れだと思います。

 

 

 

 

 

 

実際、「練習の参加率が低いのは良くないことだ」という言説を耳にすることは多くて、まあそれは参加率が低くていいことはあまりないのですが、それはこのサークルにとって、ということであって。

 

 

 

僕たちの時間は、このサークルだけをやるためにあるわけじゃなくて、勉強や他のサークルや、バイトや遊びのためにもあるのであって、その中での優先順位は人それぞれです(だいたい、新歓のときとは練習参加率に対するニュアンスが違いすぎる…)。それを「練習の参加率が~~」と言ってしまうのは、やや視野狭窄だと思ってしまいます。

 

 

 

 

どれだけ時間を割くか、つまり正規練にどれだけ参加するか、個人練をどのくらいするか…とか言ったことは、完全に個人の裁量だと思います。

 

 

 

 

 

 

でも、練習時間が多い方が、例えば個人練を全くしない人と毎日する人だったら、後者の方が、いい音楽を目指す上で望ましいのではないか、と思う人もいるかもしれません。

 

 

 

 

まあそれは望ましいは望ましいかもしれませんが、結局はやはり個人の裁量、個人練を全くしなくても、毎日しても、どれだけ時間を割くか=このサークルの優先順位をどう位置付けるか、というのは自由だと思います。

 

 

 

 

ただ、最初に言った通り、いい音楽を志向しないといけなくて、じゃあ個人練ゼロでもいいのって言ったらそれはよくて、その代わり、参加する練習の時間はちゃんとやりましょう、っていうことで成り立つんだと思います。その自由な参加を求める中で、結果を出す(=いい演奏に持っていく)のが、指導者の仕事です。もちろん個人練してくれてたらうれしいけど。

 

 

 

 

なんだか、個人練習はしないといけなくて、練習も毎回参加にしないといけなくて…というのは変なところを締め付けているような気がします。じゃあ練習あまり来れない人は演奏会から下ろしますか?個人練の時間取れない人は下ろしますか?違いますよね。(そういえば、いつか合宿に参加するのも義務だという言説も見た)

 

 

 

 

 

団体でやってて、しかもサークルである以上、団体で練習してるところ(=正規練)以外での演奏の伸びというのは、あまり計算に入れるべきではないと思います。(演奏会当日とかゲネとか、そんなのは除いて)人の時間の使い方を決める権限をサークルは持たないと思うわけです。

 

 

 

 

 

 

とまあ例によってぐだったわけですが、いい音楽、いい演奏会にしましょう、でも練習参加は自由で、その出てる練習はちゃんとやりましょう、ということなのかなー。

 

 

 

真剣に音楽に向き合うことはとてもいいことだと思うのですが、それがやや暴走して、他の人にまでそれを強いる、ということもあると思います(そういう空気がこのサークルでもややあると思います)が、それは少し危険なことですよ、という警告の意がないでもないです。

 

 

 

 

こういう立場でやってます、ということなので、駒祭乗り降り迷ってらっしゃるみなさんは乗っていきましょう!(お願いします)

コンクール前夜の徒然

久しぶりに更新します(というか存在忘れてました)。

 

久々に開いた割にはアクセスが伸びているようで、どうやら「マードック 解説」「マードックからの最後の手紙 解説」とかでGoogle/Yahoo!で検索して、そこからアクセスという人が多いようです。(上記ワードで検索すると、それなりに上位(2ページ目くらい)に出てくるようになったらしい(!?))

 

 

さて、今学期とっていた授業のレポートの関係で、絵画(特にイタリア・ルネサンス)について調べ物をすることが多かったのですが、図書館の関連の資料の隣にゴシックについての図版集があって、面白そうだな、と手に取ってみたわけです。開いてみると、13世紀フランスの聖堂建築の図版が載っている。

 

僕は単純なので、建築物を見ると、造形や様式やなんかよりも先に「こんな高いところまでどうやって壁を作ったんだろう、すげえ」とか思ってしまいます。小学生の頃からあまり変わらずに抱く感想です。幼稚ですね。進歩がない。その本に載っていた、ゴシック様式の壮麗な聖堂の内部の図版を見ても、「きれいだなあ、こんな高い建物、よく作れるなあ」。

 

 

単純な発想ですが、考えてみれば至極当然の発想のような気がします。だって、自分ではそんな高い建物は建てられないし、美しい様式、造形は生み出せないでしょう?

 

芸術全般に同じことは言えて、絵画にしても建築にしても、描く(作る、建てる)方法(時には様式も)が生み出され、(そしてそれを利用して)天才の技術と感性をもって素晴らしい作品ができるわけですよね。割と情報が氾濫しているせいで、そういったことへの驚きや感動が薄れがちなわけですが。

 

 

 

音楽というのはまさにそうで、今まで長い間研究され続けてきた音楽の(特に西洋音楽の)理論がもとになって、作曲家の技術と感性がそれぞれの作品を生み出しています。

 

 

 

先日のカウントダウンで、「尊敬できる職業は...」と話している人がいたけれど、僕は、作曲家、芸術家は尊敬に値すると思います。スコアを見るたびに、本当にすごいと感じます。

 

僕には(少なくとも今は)絶対に曲は書けないし、メロディの1つも思い浮かばないだろうし(ましてや吹奏楽曲なんて!)、それらしきものが書けたところで、メロディはきっとどこかで聞いたことがあり、故に個性なんてものはなく、さらに音楽理論的にも欠陥だらけということになるでしょう。

 

 

そして、彼らの生み出す曲、つまりその作曲家の個性や感性に、和声やリズムやメロディや展開などを通して(この辺はあまり意識していないかもしれませんが、きっと無意識に感じているはずです)触れることができるということは、本当に素晴らしいと思います。

 

 

 

今回のコンクールでも、今まで僕の演奏したことのなかった2人の作曲家の曲を演奏していく中で、やはり感じるもの、得るものは相応にあったわけです。僕はコンクールに乗ることができて、それが一番良かったと言えるかもしれません。

 

 

 

それぞれに思うことはあるのだと思いますが、まずはこの素晴らしい作品を演奏できること、素晴らしい才能に触れることができていることに、感謝したいものです。

 

 

 

明日はいい本番にしましょう!