資本主義的クロワッサン

(これは、メモ集の中から、あるテーマに沿っていくつかを抜き出したものです。)

 

 

 

・近所のパン屋さんのクロワッサン。さて、確かにバターの味と香りはするのだが、これでは平凡なクロワッサンだ。

 

バターが香るからクロワッサンだ、というのでは、それは単なる資本主義的クロワッサンであると言わざるを得ない。クロワッサンの価値とは、バターの香りのみに宿るわけではないのだ。

 

 

 

 

・資本主義。全ての価値は貨幣価値という一つの参照軸上に還元され、それを駆動するのは利益の追求という欲望のみである。

 

様々な価値をただ一つの価値体系に投影すること。それは資本主義的である。私たちは常に警戒の目を向け、反抗しなければならない。

 

 

 

 

・決して揃うことのないルービックキューブを、それなのに、一面だけ揃えることに躍起になる人々。

 

 

 

 

・「AとBは同じだ」という言説。「同じ」ということは本来ありえない。何かの価値体系において等しいだけだ。確かに言葉を取り締まってばかりいても仕方がないが、無闇に「同じ」だと騙る言説には警戒しなければならない。

 

 

 

 

 

・コンピュータによる自然言語処理。言語の退化。

 

AIが私たちの言語を解したり、翻訳したりできるようになるとして、それはどういうことなのか?たとえそれが社会に資するのだとしても、常に警戒の目を向けなければならない。

 

「言語は意味内容を伝達するための単なる容れ物である」という考え方には対抗しなければならない。

 

 

少なくとも、例えば外国語の詩が、日本語に完璧に翻訳されるということは、絶対にありえない。もしその意味内容のみが伝達されうるのだとしたら、読書という営みは全く意味をなさなくなる。そもそも詩における「意味内容」とは、一体何だ?

 

詩というのがラディカルな例であるにしても、現表行為には翻訳不可能・処理不可能な領域がつきまとう。全てのことばを「意味内容」に還元し、それを「処理」する。そこでは、必ず何かが失われる。

 

 

 

つまり、コンピュータによる言語処理に依存すればするほど、私たちの言語の中で「『意味内容』に還元不可能な領域」が縮減されるのだ。「処理できている」のではなく、「処理できない領域を縮減させて処理している」だけだ。

 

 

もちろん例えば、「全体の95%とか、99%くらいは処理・伝達できる」と主張する人もいよう。いかにも資本主義的な考え方だ。そういった人々は、私たちの言語のある部分が失われてしまっても、なんとも思わないのだろう。

 

それが様々な分野で「役立つ」としても、私はそれは手放しで受け取ることはしないだろう。それを破壊しようとまでは思わないだろうが、歓迎もしない。

 

 

 

むしろ、言葉は何かを生み出すためのものであり、かつ私たちが生み出すところのもの、今まで人々が生み出してきたところのものなのだ。縮減するがままにするのではなく、私たちはことばを、むしろより豊かにしていくはずなのだ。

 

 

 

自然言語処理技術の進化は科学の宿命であるし、それは確かに多くの局面で「資する」ものなのだろう。しかし、便利になるということは、代償を伴う。バベルの塔以前への回帰は、果たして何をもたらすのだろうか。私たちはもしかしたら、最後の幸せな世代を生きているのかもしれない。

今の勉強のこと

眠れません。今日はがんばるぞー!と思っていたらもう3時半で、まあ平常運転といえばそうなのですが。4時まで起きてるのはちょっとイレギュラーです。

 

 

このブログも、開設してから3年が経ったようです。というのも、このブログは僕が副指揮になったときにつくったので。(運営からメールが来ました。あと、教えてくれた人もいました。彼はなぜ知っていたんだろう。)

 

 

 

ということで、僕が今何をしているのか、ということを少しだけ書いておこうかな、と思います。それは、単なる報告ではなく(もちろん報告でもありえるけれど)、これから何をするのかを自分の中で整理するために書こうと思うのです。30分くらいで書き散らかそうと思います。

 

 

 

・先学期は何をしていたのか?

 

秋学期は、語学(フランス語)の授業を3つ、文学部の授業を3つ取っていました。

 

 

語学の授業は、単に会話しましょうとか文法できるようになりましょうとかではなく、もうちょい高度な運用能力が求められるものでした。

3つの授業ではそれぞれ、こんなことをしてました。

 

・社会的問題をテーマにプレゼン/討論しましょう

・フランス語圏文化/文学についてプレゼン/討論しましょう

・文学作品が原作の映画をプレゼンしましょう

 

 

結構しんどかったのですが、ないコミュ力を総動員して会話に割り込みまくり、喋りまくりました。正直、かなり会話は伸びたと思います。

 

 

文学の方は、詩を読む講義が2つと、ラテン語の講義が1つ。

ラテン語の方は既習だったので、僕にとってはフランス語の授業みたいな感じでした。(+ラテン語の復習。)

 

そして、残りの2つの講義。これが僕にとっては最高の時間だった。現地の学生に混じって発表したりしたのもよい体験だったのだけれど、ここでの読書体験は最高だった……。これについてはこれ以上書くまい。

 

(ちなみに授業はなんと180分!)

 

 

 

・今学期は何をするのか?

 

今学期は、フランス語の授業を取らないことにしました。1つくらい取ってもよかったんだけど、もういいかなって。それは、もうできるからいいや的なおごりではないんだけど、会話能力を高めることは秋学期でかなりできたし。そういう場をもう大学に求めないということです。十数人いる授業で割り込みに割り込んで喋るのもよかったけれど、これからはおしゃべりな大家さんと世間話をして会話を伸ばしていくのもアリだろうな、と。

 

それに、(母校の)研究室の先生からいただいたメールでも、「読めるものをたくさん読んで吸収しなさい」というメッセージをいただいたことで、何をすべきかっていうのが見えたような気がする。

 

 

というわけで、今期はフランス語史、作家研究、詩の3つです。ざっくりしすぎなのですが。

 

コマ数も3つになって、先学期に比べて余裕ができたので、読みたいものを片っ端から読んでいこう、と思っております。

 

 

現在も、150ページほどを2週間かけて来週までに読んでいかなきゃいけないわけですが、これが読めそうだ、という見通しが立っているわけです。なんとか辞書なしでもざっと読み通せそうだという。

 

もちろん例えば「«guimbarde»と«charrette»と«tilbury»と«char à bancs»がそれぞれどんな馬車なのか」とかはすぐにわからないし、それはまだまだ勉強しなきゃいけないわけです(全部馬車・荷車の名前です)。

 

でも、まあ馬車だろうなとわかるし、なんとか読み進められるということ。それは今までになかったことだし、(ここで詳述しませんが)それがまさに今回の留学で得たかったものの一つなわけです。

 

 

 

つまり今学期は、もっぱら読んでいることになると思います。

 

 

 

まあぽちぽち旅行もしていきたい。もちろん勉強の方が大事ではあるんだけど。まあ旅行も勉強みたいなとこあるよね。

旅行しまくりみたいになるのはいわゆる大学での講義が終わってからになると思うけど。そんな夢を見る前に、まずは読みます。

 

 

 

書きたいことはたくさんたまっているのですが、なかなか時間がとれません。ブラアカとはどんどん切れていっているのを感じますが、これは今後も続けていこうかなと思うので、今後も書いたら、暇なときにでも読んでやってください。いつも読んでくださってありがとうございます。

掃除

まだキャンプラに入り浸っていた頃、だいたい週に1回とか、月に2回くらいのペースで、キャンプラの事務室に行ってほうきとちりとりを借りていた。

 

 

最初は、高校の頃の部活の指導が身体に染み込んでいて、掃除はしなければならないものだ、という意識がまだ少しあったから、特に何も考えずにやっていた。けれど、途中からは、何か確固たる理由にしたがって掃除をしていたわけではないにせよ、掃除をする理由というものがぼんやりと立ち現れてきた。

 

 

 

確かに、汚れた床への嫌悪感は多少あったが、それは楽器ケースが埃で汚れるのが嫌だったからだと思う。汚れた床そのものの「ケガレ」みたいな意識があったわけではない。

 

 

それに、僕が使っていた楽器ケースの色は青で、ただでさえ僕は青が嫌いなのだけれど、そのケースの青は不愉快にくすんだ色だった。だから楽器ケースへの愛着はほとんどなかった。埃で汚れるのが嫌だったのは、清潔への意識というよりも、不潔だと思われたくないという意識に起因していたと思う。

 

 

 

 

だから、僕が掃除をしていたのは、「床をきれいにしたいから」ではなかった。

 

そうではなくて、音楽を聴きながら掃除をしていると、余計な思念は消え、静かな気持ちになれるということが大事だった。

 

 

 

いやむしろ、僕は掃除をしながら音楽を聴いていたのかもしれない。いつも同じ音楽を聴いていた(何を聴いていたかはここでは言うまい)。身体を作業に集中させて、頭では静かに音楽を聴いていたのかもしれない。

 

 

 

 

それはたいてい、土曜の昼とか、日曜の夜だったと思う。廊下に誰もいないときを見計らって、ほうきとちりとりを借り、イヤホンをして、音楽をかけ、廊下と階段にほうきをかける。その30分が、いとおしい。Ça me manque …

僕の考え方

ちょっと長いです。1日でぶわーっと書いたので、まとまってないと思います(という免罪符でもって、ちゃんと推敲するのはあきらめました)。いま書かなければいけないという危機感を持ってるし、時間も少しできたので書きました。

 

何かでっかい論をぶち上げたいわけじゃないけど、とにかく僕がいまどのように考えているかというのを書いていきたい。

 

ちょっと長いので目次を。

 

・横断歩道の話

・ハラスメントの話

・ポリコレの話

・「何も言えない[言わない]」への差し戻し

・最後に: それでも言う/それでも差し戻す

 

 

 

 

 

・信号を無視して横断歩道を渡るとき、僕らは何百の人をひき殺している

 

 

信号無視して横断歩道を渡ったことがない人っているんでしょうかね。

はっきり言って、僕は赤信号でも安全だと思ったら渡っちゃうことがあります。

 

 

 

信号無視をして渡るときって、(ほとんど)全ての人が安全だと思ってるから渡るわけですよね。ちゃんと確認したけど死角にいた車が見えなかったとか、みんな渡ってるから自分も渡ったとか、酩酊していて確認不十分だったとか、そういうの全部ひっくるめて。

酔ってるからっていって、自分でナイフを喉に突き刺すような人はいないわけで。本当に危険だとわかっていればそんなことやんないわけで、その意味ではみんな「安全だ」と思うから渡るわけです。

 

 

で、結果どうなっているかというと、毎年800人から1300人くらいの方が亡くなっています。

 

(出典とかいらないか、って思ってたけど、一応書いときます。リンク先PDF落としてくるので注意。

https://www.npa.go.jp/toukei/koutuu48/H29siboubunnseki.pdf

引用した数字は、p.13歩行中死者のうち法令違反者の人数。)

 

 

 

 

なんでこんなことを突然言い始めたのかというと、これについてぐるぐる考えてたときがあり、結局これもポリコレなんかの話と全く同じことだと思ったからです。

 

ある日僕が信号を無視して渡ってたときに、周りからの視線を感じてふと思ったことがきっかけでした。つまりそれは、なに信号無視してんだよ、って視線なわけですよね。で僕は、「そういうあなただって、似たようなリスク取ってるときあるでしょ?」って思ったわけです。

 

この「リスク」についてはまた後に書いてるけど、「何かしらの自由を得るための対価としてのリスク」だと思ってもらって大丈夫です。

(もちろん法令違反は単なるリスクではないと思う人もいるだろうけど、それも含めてのリスクだと今は考えてください。)

 

 

 

さっき書いたように、信号無視して渡る人って、安全だと思って渡ってるわけですよ。例えばド田舎に旅行してるとき、狭い横断歩道に真夜中の車がいない時間帯にきて、赤信号2分続いたら待つのかって話。いやそりゃ待ってたら絶対安全だし、法令には絶対に違反しないし、何か事故があっても過失ゼロなわけだけど、でも渡るでしょっていう。

でもその同じ判断で結局1000人近い人が亡くなっている。

 

 

 

これって結局、僕らが殺してるんじゃないか?法令違反をした人が悪くて亡くなったんではないでしょう。もしくは、「僕らが毎年、百万分の一人死んでいるんだ」。

 

 

けどね、それでも僕は多分渡ると思います。

 

 

これを小さなきっかけにして、ポリコレの話までちょっと書いてみたい。

 

 

 

 

・「ポリコレ」と「ハラスメント」の限界、最初にハラスメントの話

 

最近似たようなことRTしたので、もしかしたら見てくれたかもしれないけど。例えば、ハラスメントについての話。

 

ハラスメントって名前がつくもの、基本的にいけないことばかりでしょう。セクハラやパワハラ、あってはいけないことだと思います。

でもね、最近は「ん?」って思う”ハラスメント”が増えてきたと思うわけですよ。

 

例えば「スメハラ」ってのがあってさ、汗臭かったりするとハラスメントだってさ。へえ。

でも僕からすりゃ、電車にいる男性のかなりの割合スメハラですよ。

じゃあ僕のように嗅覚が敏感な人が、例えば電車で隣にいる人に「あなたの臭いが不快なのでスメハラです」って言ってどうなるのか。「その人がにおわないようにさせる」という拘束力が僕にあるのだろうか?もしその力がないのだとしたら、僕は「ハラスメント(これがハラスメントだとすればね)」されている状態に甘んじなければならない、つまりこの状況を「ハラスメント」だとは到底呼べないだろうし、そんな力が僕にあるんだとすれば、なんだかそれは他の人の権利を侵害している気もする(例えば、その汗臭かった彼は、消臭スプレーを買ったり電車に乗る前に汗をかくのを控えたりしないのいけないんだろうか?)。

 

(まあこんなちょっと込み入った例にしなくてもよかったか。今じゃ麺すすっただけでハラスメントだからなあ。笑)

 

 

結局ね、(これは前にも書いたけど、)相互に干渉しない権利ってのはあんまないわけですよ。私の権利=相手の義務っていう風に、ジグソーパズルみたいにぱちぱちはまるような代物じゃない。

 

確かにパワハラから過労死やうつ病って本当にあってはいけないことだと思う。けれど、例えば「スメハラ」だとか「~~ハラ」みたいなしょうもない「ハラスメント」(口が悪いですね)がたくさん出てきて、それってどうなのっていう。

 

こういうしょうもないハラスメント(口悪いですね)って、結局人と人との関係性の中で生じる不都合を全部片方の理で片付けようとしてる態度なわけね。で、もちろんこの「片方」の理に筋が通ってることもあるわけだけど、うーん50:50だねーみたいなこともあるわけ。でもそれを全部ひっくるめてハラスメントって言っちゃう。

 

本当にこんなの全部ハラスメントって言ってたら、身動き取れなくなっちゃうよ。ラーメン屋で麺すすったらハラスメント、汗臭いまま電車乗ったらハラスメント、家事のやり方に文句つけたらハラスメント。

 

 

だから、(ここちょっとだけ過激なことを言いますが、)人間として、他人との関係性の中で生きていく以上、そのリスクは引き受けないといけないと思うわけです。

そのリスクっていうのは、例えば安全だと思って渡った横断歩道で轢かれるリスクだったり、電車に乗ってたら横に汗臭いおっさんが乗ってくるリスクだったり、ラーメン屋に行くと麺をすする音が聞こえるリスクだったりね。

 

 

 

 

・ちょっと脱線、障がいの話

 

じゃあ、(この例えは数人にしたことあるんだけど、)例えば「私は○○っていう障がいを持っていて、その障がいを持っている人にはこう接してあげないといけない!」っていうツイートをいつだか見かけました。そのツイートはバズったからよかったね、と思うよ。

でもさ、そんな病気や個人的事情って結局溢れかえってんじゃん世の中。

 

じゃあそういう難病やらなんやら(相当に口が悪いと自覚して書いていますが)を学校やどこかでいちいち全部習わなきゃいけないんですか?口が悪いけどさ。多分そういうことじゃないでしょう、と思う。

(もしそんなことがデータベース化されて常に可視化されているような世界が訪れたら、(この件に関しては)問題が解決される、少なくとも問題は次のステップに先送りされることになると思います。僕はそれもそれだと思っているけどね(先日の遺伝子操作ベビーと平行な部分になるディストピアだと思う)。さて、そんなことを今後書く時間はあるのだろうか…)

 

このツイートが拡散された意義って、「そんな人がいるということが想像できるようになったこと」なのであって、結局完全な解決(?)をもたらすものではない。

そのツイートをした人を責めるつもりは全くないけど、「こういうケースがある」っていうのは、他者理解には限定的にしか寄与しないと思うんですよね。限定的な寄与っていうのは、「こんな人がいるんだ~」っていう想像力を与えてくれるという意味で(これはこれで大事)(さっき「こんなのいちいち全部習わなきゃいけないの?」って書いたけど、こういった形で見えにくい障壁を抱えている人がいますよ、という想像力を持たせる教育がもっとあるべきなのではないか?とは思います)。

 

 

結局、そういうのを全部知っておきましょうっていうアプローチじゃなくてね、どっちも最大限歩み寄りましょうと。「外見からはわからないこともあるからこれとこれと…etc.を知っておいてね」ということではなくね。どのような困難を抱えているかを見抜く/想像することは私たちの「義務」ではないと思うから。(言い方アレだけど、例えば電車内とかで、口で言ってもらうなりして発信してもらわなきゃ、こちらからはちょっとわかんない障壁っていっぱいあるし。)

 

そもそも例えば、「今日はめちゃくちゃ具合が悪いから席を譲ってほしい」というタイミングがあったとして、「でもあなたは健常者だから問題ないでしょ」とはならんでしょ。「こういう障がい・障壁がある」ということではなくて、結局のところは一人一人の問題というところまで還元されるんではないですかね。

というのが、「私のような人もいるのでこんな配慮をしてください」型の情報を見たときに毎度考えることです。

 

 

 

・ポリコレの話

 

で、ポリコレの話ですよ。

僕の話をすると、僕がきちんとジェンダーについて理解を始めたのって高校生になってからなんじゃないかなあ、と思います。

いわゆる世間ではどうだったのかわかりませんが、LGBTっていう言葉を知ったのは大学に入ってからだと思う。(Wikiで見てみたら、全然もっと前からあったんですね、恥ずかしながら知りませんでした。)

 

で、その後LGBTQっていうのが出てきたり、そのさらに別の軸での分類があったり、それを解説した図がTwitterでまたバズったり、やれやれ…という気持ちになったのを覚えています。

 

それに意味がないなんてことは全く言いません。例えば僕の場合はセクシャルマイノリティに関して全く理解がなかったし、どこかで理解する必要があったと思う。

また例えば、僕の親族にはこうした現状について理解している人間は僕以外いないだろうと断言できます。理解がない人々というのもいることを考えると、やっぱりインデックス的な意味でカテゴライズを、しかもそれを細かくやっていって”まず”普及させることは意義のあることだと思う。

 

けどね、やっぱりインデックスがインデックスで止まっちゃ意味ないんですよ。意味ないんだけど、案外人々はそこで止まっちゃっている。

 

(関係ないようで関係のある話なんですが、この前大学で死刑制度のディベートをしたときも、ヨーロッパ出身の学生たち(このラベルが適切かどうかはわかりません)は「19xx年に~~っていう法律ができて…」とかいう話しかできなくてたいそう失望しました。LGBTの議論になったときも、「LGBTだけじゃなくてQもだよ!」とか、「いやLGBTTQだよ!」とかね。頭痛くなったわ。そういうことじゃないでしょっていう。)

 

 

つまりね、カテゴライズしたらはい終わりで、それぞれのカテゴリに画一的に対応すればいいでしょっていうマインドがあるわけね。で、そっからの進展はなしと。進展があるとすれば、一時期過熱したように「カテゴリを増やす」ということだけです。

まあ、行政手続き的な意味合いではね、そういうのも意味あると思うよ。そもそも結婚制度とか見直さなきゃってことだし。「結婚できない」みたいな意味でもそうだけど、「行政手続きの用紙に書けない欄がある」みたいな問題も発生することがあり、それは単に用紙に書けない欄があるというだけの問題ではないと思うから。

それに、「啓蒙」という意味でもやはり意味のあることだと思うし、「マイノリティについて無知なマジョリティ」という存在を減らしていかなきゃいけないっていうのもわかる。

 

 

とにかく、セクシャルマイノリティにしろ身体障がいにしろ、まず区別そのものが正当でありうるのか?ということ。区別を突き詰めると結局個人というところまで行き着いてしまうでしょ。結局、あの人はこのカテゴリだから、ということではない。人付き合い、コミュニケーションってそういうものじゃないはずなんですよ。

 

それまでマイノリティが差別されていたという現状があり、それは確かにいけない。けど、その歪みを解消するうちに、僕らの世界を何もない真っ平らにしようとしている人々、その意味も考えず、まっさらな状態が正しいものだと根拠もなく盲目的に平板にしようとしている人々がいる。

盲目的ってのは、つまり正悪の判断基準をそこに置いちゃうわけね。「真っ平らなのが正しい」っていうのが根拠化しちゃってるわけ。

 

例えばの話をまた始めるんですが、文学作品のほとんどがいわゆるマジョリティ目線で書かれていて、その原因はやはりセクシャルマイノリティがある種のタブーになってしまっていたという社会的側面があったというのは事実としてありますね。じゃあマイノリティが主人公の作品がたくさん出るようになりました、というのもまあ事実。

この「真っ平らな状態が正しいと根拠化してしまっている人々」がやっている主張、彼らの方向性というのは、これは本当に例えばの話なんだけど、「マジョリティの文学もマイノリティの文学も同じだけの作品数があり同じだけ豊かであることを要求している」というのと似たようなものを感じるわけです。

 

もちろんマイノリティの世界に作品的価値を見出すということはあるだろうけど、マジョリティってそのまま数が多いんだから、マジョリティの作家が多いことも当たり前なら、彼らの作品数が単純に多いのもやはり当たり前。それなのに、均衡できないものを均衡させようとしているような気がします。

やっぱりここでも、「平等」という念仏を唱えてるだけで、中身がよくわかってないんじゃないかっていうね。

 

文学空間の話と同様、例えば僕らのボキャブラリーとか、僕らの紡ぐ言葉がマジョリティ目線になってしまうことって、そんなに責められなければならないことなのだろうか?

 

とりあえず指摘されたら(というか僕の場合は自分で書いていて自己検閲してしまうことが割と多いけど)退却するのも一つの選択肢としてあるんだけど。そっちの方が安全だから。でもさ、結局「みんなに適用されうる」「みんなにとって正確な」言葉って果たしてあるんだろうか?「真に何の偏見もない」という状態は果たしてあり得るのか?(偏見を助長するつもりはありません)

 

 

 

・ちょっと話広がりますけど、平等があり得るのか?という話

 

本当に話をめちゃくちゃ広げるんですけど、ここまでは広げておかないとちょっともやっとしちゃうので。あんまもやっとしてない人は読み飛ばしてもらっていいんですけど。

例えばアフリカの貧困の中に生まれる人と、NYの大富豪の家庭に生まれる人がいる。また例えば、生まれた環境は決して悪いものではなかったのに、突然多額の借金を背負ったり、いじめにあったりする人もいる。

 

もちろん性的マイノリティとして生きていくことについて現状困難があるというのは、当然ある。マイノリティである理由は、生まれつきのことかもしれないし、その後の環境に依存するものなのかもしれないけど。じゃあね、アフリカの紛争地帯に生まれたら、やっぱり生きていくのは簡単じゃないんですよ。

どんな環境でも生きていくことに難しさを抱える場合というのがある。それが貧困だったりネグレクトだったりマイノリティだったりする。(念のため言っておきますが、例えばバイセクシャルであることそのものが「難しさ」なのではなく、マイノリティであること、マジョリティからの理解が当たり前ではないという環境でマイノリティとして生きることが難しさだと言っている。)もちろんその困難はできる限り排除しなければいけないと思うけど、やっぱり限界があることにはあるんだと思う。

(個人的感情だけど、全く別の次元、貧困や紛争などといった理由で障壁にぶち当たっている人にはみんなはあまり動かされないのだろうか?とも思う。こっちは半ば「そんな障壁もあるよね、仕方ない」くらいに思われている(ような気がする)割に、性的マイノリティの話になるとそんなに躍起になるんですか、とも思ってしまう。僕も先進国様に生まれてありがたくも快適な生活をやっている分際で何も言えないんですけど。何も行動を起こしているわけでもないし。)

 

 

もちろん、現状ある障壁っていうのは取り払わなきゃいけない部分もあると思う。けど、やっぱり全くのフラットという状態はあり得るのか?あり得たとしてそれはマジョリティ側にとって平等か?とも思う。例えばだけど、賃金なんかがフラットでないという状況は明らかにおかしい。けど、根源的な話をすると、現状のマジョリティとマイノリティの比率がフラットになるということは、あまりあり得そうもない。

 

 

 

・「何も言えない」に向けた差し戻し 

 

とても脱線してしまいました(けれど単なる脱線でもなかったと思う)。

ひとまずの終わりに向かいます。

 

結局、区別による分断と、「正確な」というより「誰も傷つけない」言論を追い求めた結果は、沈黙ですよ。何も言えなくなってしまうという状態。何か言ったら間違っていたり、誰かにとって「ハラスメント」になっちゃうかもしれないからね。

 

何かを発言するとき、この発言を見た人がどう思うだろう、ってそりゃ僕も考えるし、考えなきゃいけないし、全く考えていない無神経な奴を見ると普通に腹が立ちますよ。でも、万人にって言ったときにそれは可能なんだろうか。

例えば「ウニ食べたい」っていう言葉が、ある人にとってはウニを素足で踏んでしまった痛い思い出を想起させるかもしれない。「豚肉がおいしい」っていう言葉は、肉の味が大嫌いなベジタリアンに不快感を抱かせるかもしれない。

言葉のネガティヴな方面に目を向けてしまうと、何かを発言することって不可能だと思います。

 

でもね、じゃあ「ウニ食べたい」っていうのやめますかって言ったら、やめないんですよ(ちなみに僕はウニ好きじゃありませんが)。

 

例えば、Twitterっていう言論空間でどうすればいいの?って言われたらちょっと返答に窮するし、ちゃんとした答えは与えられないかもしれない。少なくとも言えるのは、「面識のあるフォロワーには自分のできる範囲で配慮する」「面識のないフォロワーは自己責任、自分に著しく不快感を与える人は目に入らないようにする」ということなんじゃないかな。自分で勝手にそのサービス使って、勝手にフォローした人のツイート(とRT)を見てるわけだしね。正直自己責任だし、嫌な人がいればバイバイするなりミュートするなりすればいい。

 

やっぱり、個人的な会話でもない限り、SNSにしろメディアにしろ、言論空間ってやつはタダじゃ使えなくて、リスクを引き受けないと使えないんだと思う。そして逆に、全くもって「きれい」でいることも難しい。本当に「きれい」でいようとしたら、何も言えなくなってしまう。

そして、これは言論に限らず、私たちの生活の中で、他者に(そして自分に)傷を負わせてしまうリスクなしには何もできない。(電車でご老人に席を譲ってあげるとき、その反応はいくつか考えられて、それは必ずしも好意的なものだとは限らない。)

 

ともかくコミュニケーションの一番根っこのとこって、1対1での会話なのであって(これは僕の友だちからの大切なことば)、1対1のシチュエーションにおいては、互いの心がけで相手に傷を与えないコミュニケーションが取れるはずだと思う。 

 

 

 

・最後に: それでも僕(たち)は言う - それでも僕(たち)は相手を考える — 自己と他者

 

それでもね、何かしら発話する中で誰かを傷つけてしまうことっていうのはどうしてもあるわけで、そのリスクはやっぱり引き受けなくちゃならない。「ポリコレ?知らないよ」って無視して害を振りまいちゃうようなのは×だけどさ、そりゃ人と話してたら相手の「ポリコレ基準」みたいなのに引っかかっちゃうかも知れない。(もちろん、僕は前書いたように、アクチュアルな活動をしている人は、それだけで意味があると言えると思っています。手放しに尊敬しています。)

 

けど、僕はそれでも何かを言い続けたいと思うし、同時に他の人を大切にしてことばを使っていきたいと思う。これは大きな矛盾かもしれないけど、コミュニケーションの基本の部分で、僕が大切にしたいと思っている人々を傷つけたいとは思わないし、それは何かの強制力ではなくて僕の根本的な欲求だと思う。

 

「伝えたい」と「大切にしたい」はある程度トレードオフの関係ではあると思うけど、「じゃあバランスの問題だね」とは僕はここではあえて言いたくない。完全なトレードオフの関係ではないと思うし、どちらも僕の欲求だし。その欲求を盲目的に根拠化することなく、つまり「自己」を「他者」と区別された絶対的なものだという考えは排除しつつも、僕は話したり書いたりしていきたい。

 

何にせよ、(「書く」も含めて)「言う」っていうことは、常にリスクをはらんでいる。有り体に言えば、何かを言ったときに言われないものがあり、何かを「好きだ」と言うときには、「好きだ」と言われていないものがある。極論に見えるけど、でもそうですよ。つまり、信号無視をして横断歩道を渡る(何か発言する)ときには、同時に誰かを、0.000001人くらいひいてるんですよ。

(ちょっと例えそのものがよくなかったかもしれないけど、「信号無視」=「ポリコレに反する」ではなくてね。むしろ、全ての言論は「反ポリコレ」であり得る、と言っています。)

 

 

だからね、言葉に気をつけましょう、では必ずしもなくてね。いやそれもそうなんだよ。でも、どんな言葉も誰も傷つけないってことはない。「言う」ことの罪深さを知らないといけない。

 

 

 

 

"それでも"、僕らは言いつづけると思う。相手のこと、他者のことを考えると言うのはそうなんだけど、「"それでも"の身振り」ですよね。それでも、僕は何かを言っていきたいと思う。

質問箱

・僕は元来、質問箱にちょっと距離をとってきたような気がします。

 

なんだか質問をする気にもならなかったし、回答を見るのも別に気が進むわけではなかった。

 

というのも、TwitterにしろLINEにしろ、従来のコミュニケーションのやり方では埋めきれなかった空白を埋める役割を果たしていて、まあ使いようによってはそれは(少なくとも僕の使い方に関しては)うまくいっているんだけど、““質問箱っていうのは、ある意味で、コミュニケーションにおいて生じ得る空隙を全て埋めることができるような存在だよね。””

(これを前から思ってたんだよな。)

 

 

「コミュニケーション」は、「会話」とか、(より僕が考えていることに近い言い方で言えば)「声(のやりとり)」とかに置き換えてもいいと思うんだけど。

 

たぶん、声のやりとりにおいて空隙が多いときって、あまり望ましくはないと思うんだけど、空隙が全くないっていうのもよくないと思うんだよね、身動きがとれない。

 

 

質問箱という、匿名の声を差し出すことのできる郵便箱には、ときおり、本来足を踏み入れることがためらわれるような領域まで開示したいという欲望が垣間見えて、なるほどと思ったのでした。

 

 

・じゃあなんで僕が質問箱を始めるのかということなのですが(僕は質問箱を始めます)、

 

単純に、僕の今の現状から考えると、むしろコミュニケーションがない状態なので、埋めていきたいなあ……とか思ったときに、質問箱いいなあと思いました、ということです。

 

毎週会ったりする関係性の人が、一時的に全くいなくなってしまったわけだし、その意味では、質問箱を「むしろ軽い」コミュニケーションとして、あらゆる空隙を埋める最後の一撃としてではなく、声を発するとっかかりとして使ってみたい。(別に何かを言いたいことがあるわけじゃないんだけど。)

 

 

 

伝わるかどうかとか気にせず、自由に、好きなことを書けるのはいいですね。書きたいことは山ほど溜まっているので、暇なときを見つけて(つくって)書いていきたい。

「丁寧」または「敬語」について

駒場でフランス語のインテンシブの授業受けてたとき、フランス人の先生で「僕のことをtuで呼んでね!」っていう方がいて、けっこう最初戸惑いました。

 

 

(注: ざっくり言うと"tu"は「きみ」で、「あなた」にあたるのは"vous”)

(さらに気になる方へ: "tu”は2人称単数で、心理的距離の近い人に対して用いる。”vous”は2人称複数だが、2人称単数のうち目上の人、また面識のない人などに対しても用いる。)

 

 

つまり、先生に対して「きみ」って話しかける感じです。

 

授業中だけじゃなくて、例えば個人的にオフィスに行ったりしても、"vous"で話しかけたりするとnonって言われて、なんでだろうって感じでした。 

 

 

で、駒場での授業も終わったのですが、細々と(?)交流があります。たまにチャットでやりとりします。そこで気づいたのは、vousで言えるようなことが、tuでは言いにくかったりする、っていうことです。

 

 

例えば(イメージしてください、先生は30歳くらいの若い感じのフランス人男性です)、日本語で言えば、

 

「来週の火曜日か水曜日空いてますか?もし空いてたら午後のどこかでお会いしてお話したいんですが」

 

っていうお願いをするとして、これをtuで呼びかけるような文体にすると、

 

「来週の火曜日か水曜日空いてる?もし空いてたら午後のどこかであって話したいんだけど」

 

っていう感じになるんですよ。前者より後者の方が、なんだか言いづらくないですか?ていうか、前者の言葉を投げかけるのに、抵抗が全くないような気がしませんか?

 

 

 

tutoyerする(tuで呼ぶ)ということは、それだけ相手との距離が近づくということ。それだけ、自分の言葉の重みも増えているような感じがあるわけです。

 

逆に、日本語でvouvoyerする(vousで呼ぶ)とき、つまり普通に日本語で何かを丁寧にお願いしたりするときに、何か自分の言葉が軽くなっているということはないか。極端に言えば、丁寧であればなんでもやっていい、という振る舞い方をしていないか。これはかなり考えさせられました。

 

 

 

もちろん、フランス人の振る舞いと僕らのそれは異なるんでしょう。それに、僕自身敬語を使う文化の中にいるし、それが自分の振る舞いを規定している部分はあって当然だと思います。

 

けれども、単なる「丁寧」は時として、思考停止のコミュニケーションを生むのかな、とか。あえてその「丁寧」をぶち壊したときに見えたものがあったような気がしました。

 

 

 

「丁寧」を使うべきところで使えないのは論外だと思うけど、空虚な「丁寧」もまた慎むべきなのでしょう。

 

敬語を使う・使わないということに関して思いを巡らせる人もいるのでしょうが(Twitterでも見かける気がする)、まずは足元を見つめることなのでは、と僕は思います。

匂いについて(ピントを合わせすぎないこと_2)

・僕にとっては、匂いについて、「新鮮である」ということと、「生臭い」ということの間には、大きな違いはない。

 

 

今日はチューブの生わさびを買って開封したんですが、例えば、チューブの生わさびを最初に開けて感じる匂いと、魚の生臭い匂いの間には、共通項がある。(脱線するけど、この「匂いの共通項」という概念が自分にとっては重要だし、さまざまな匂いを知覚・分類するにあたって重要。)

 

魚の生臭い匂いっていうのは、別に新鮮であるかどうか関係なく感じられるもの。とにかく、「生(なま)」なんである。で、この「生」という価値が、ときとして「新鮮さ」にもなり、「生臭さ」にもなる。

 

つまり、「新鮮さ」と「生臭さ」は、ある価値(「生」)のポジティブな側面とネガティブな側面にすぎない、ということも可能なのでは。つまり、同じもの、同じ価値(「生」)を持つものが、ときに「新鮮だ」と言われ、ときに「生臭い」と言われる。

 

 

 

ところで、最近明治の「おいしい牛乳」の、キャップがついている密閉容器のタイプの商品を買ったけど(みなさんご存知ですか?)、あれを開けて最初に飲んだときの感想は、やっぱり「生臭い」だったのでした。正直、あまりポジティブな印象は受けなかった。好みの問題だとは思います。でも、「生」に近ければ近いほうがいいというわけでは、決してない。

 

 

この前も書きましたが、「ピントを合わせすぎないこと」というのは重要であり、やはり「『新鮮さ』を追求しようとした結果『生臭く』なってしまった」ということがあるわけで、なにかにフォーカスしっぱなしで突き進んでしまってはいけないということがある。

 

 

人それぞれにそのピントのぼかし方(?)のバランスがあり、例えば生魚よりも焼いた魚の方が好きだという人はいるでしょうし、牛乳は嫌いだけど乳製品はいけるという人もおり、ステーキはレア派もウェルダン派もいるわけです。

 

 

「新鮮」「生臭い」という価値それぞれにピントを合わせても何もわからず、どうしても匂い・味の諸相というものが見えてこない、ということがあるんでしょう。(味なんて専門でもなんでもないのに、なんかえらそうなこと書いちゃいました。)

 

 

 

そして、最後に、おそらくみなさんには理解できないだろうということを書いておきます。「生」なものの匂いというのを言語化してみると、「『入り込みすぎたので、引き返さねばならない』と思わせる匂い、明確な形は持たず、むしろ『形』の対極にあるような匂い、ただ無意識的な引力を感じるもの」です。