質問箱

・僕は元来、質問箱にちょっと距離をとってきたような気がします。

 

なんだか質問をする気にもならなかったし、回答を見るのも別に気が進むわけではなかった。

 

というのも、TwitterにしろLINEにしろ、従来のコミュニケーションのやり方では埋めきれなかった空白を埋める役割を果たしていて、まあ使いようによってはそれは(少なくとも僕の使い方に関しては)うまくいっているんだけど、““質問箱っていうのは、ある意味で、コミュニケーションにおいて生じ得る空隙を全て埋めることができるような存在だよね。””

(これを前から思ってたんだよな。)

 

 

「コミュニケーション」は、「会話」とか、(より僕が考えていることに近い言い方で言えば)「声(のやりとり)」とかに置き換えてもいいと思うんだけど。

 

たぶん、声のやりとりにおいて空隙が多いときって、あまり望ましくはないと思うんだけど、空隙が全くないっていうのもよくないと思うんだよね、身動きがとれない。

 

 

質問箱という、匿名の声を差し出すことのできる郵便箱には、ときおり、本来足を踏み入れることがためらわれるような領域まで開示したいという欲望が垣間見えて、なるほどと思ったのでした。

 

 

・じゃあなんで僕が質問箱を始めるのかということなのですが(僕は質問箱を始めます)、

 

単純に、僕の今の現状から考えると、むしろコミュニケーションがない状態なので、埋めていきたいなあ……とか思ったときに、質問箱いいなあと思いました、ということです。

 

毎週会ったりする関係性の人が、一時的に全くいなくなってしまったわけだし、その意味では、質問箱を「むしろ軽い」コミュニケーションとして、あらゆる空隙を埋める最後の一撃としてではなく、声を発するとっかかりとして使ってみたい。(別に何かを言いたいことがあるわけじゃないんだけど。)

 

 

 

伝わるかどうかとか気にせず、自由に、好きなことを書けるのはいいですね。書きたいことは山ほど溜まっているので、暇なときを見つけて(つくって)書いていきたい。

「丁寧」または「敬語」について

駒場でフランス語のインテンシブの授業受けてたとき、フランス人の先生で「僕のことをtuで呼んでね!」っていう方がいて、けっこう最初戸惑いました。

 

 

(注: ざっくり言うと"tu"は「きみ」で、「あなた」にあたるのは"vous”)

(さらに気になる方へ: "tu”は2人称単数で、心理的距離の近い人に対して用いる。”vous”は2人称複数だが、2人称単数のうち目上の人、また面識のない人などに対しても用いる。)

 

 

つまり、先生に対して「きみ」って話しかける感じです。

 

授業中だけじゃなくて、例えば個人的にオフィスに行ったりしても、"vous"で話しかけたりするとnonって言われて、なんでだろうって感じでした。 

 

 

で、駒場での授業も終わったのですが、細々と(?)交流があります。たまにチャットでやりとりします。そこで気づいたのは、vousで言えるようなことが、tuでは言いにくかったりする、っていうことです。

 

 

例えば(イメージしてください、先生は30歳くらいの若い感じのフランス人男性です)、日本語で言えば、

 

「来週の火曜日か水曜日空いてますか?もし空いてたら午後のどこかでお会いしてお話したいんですが」

 

っていうお願いをするとして、これをtuで呼びかけるような文体にすると、

 

「来週の火曜日か水曜日空いてる?もし空いてたら午後のどこかであって話したいんだけど」

 

っていう感じになるんですよ。前者より後者の方が、なんだか言いづらくないですか?ていうか、前者の言葉を投げかけるのに、抵抗が全くないような気がしませんか?

 

 

 

tutoyerする(tuで呼ぶ)ということは、それだけ相手との距離が近づくということ。それだけ、自分の言葉の重みも増えているような感じがあるわけです。

 

逆に、日本語でvouvoyerする(vousで呼ぶ)とき、つまり普通に日本語で何かを丁寧にお願いしたりするときに、何か自分の言葉が軽くなっているということはないか。極端に言えば、丁寧であればなんでもやっていい、という振る舞い方をしていないか。これはかなり考えさせられました。

 

 

 

もちろん、フランス人の振る舞いと僕らのそれは異なるんでしょう。それに、僕自身敬語を使う文化の中にいるし、それが自分の振る舞いを規定している部分はあって当然だと思います。

 

けれども、単なる「丁寧」は時として、思考停止のコミュニケーションを生むのかな、とか。あえてその「丁寧」をぶち壊したときに見えたものがあったような気がしました。

 

 

 

「丁寧」を使うべきところで使えないのは論外だと思うけど、空虚な「丁寧」もまた慎むべきなのでしょう。

 

敬語を使う・使わないということに関して思いを巡らせる人もいるのでしょうが(Twitterでも見かける気がする)、まずは足元を見つめることなのでは、と僕は思います。

匂いについて(ピントを合わせすぎないこと_2)

・僕にとっては、匂いについて、「新鮮である」ということと、「生臭い」ということの間には、大きな違いはない。

 

 

今日はチューブの生わさびを買って開封したんですが、例えば、チューブの生わさびを最初に開けて感じる匂いと、魚の生臭い匂いの間には、共通項がある。(脱線するけど、この「匂いの共通項」という概念が自分にとっては重要だし、さまざまな匂いを知覚・分類するにあたって重要。)

 

魚の生臭い匂いっていうのは、別に新鮮であるかどうか関係なく感じられるもの。とにかく、「生(なま)」なんである。で、この「生」という価値が、ときとして「新鮮さ」にもなり、「生臭さ」にもなる。

 

つまり、「新鮮さ」と「生臭さ」は、ある価値(「生」)のポジティブな側面とネガティブな側面にすぎない、ということも可能なのでは。つまり、同じもの、同じ価値(「生」)を持つものが、ときに「新鮮だ」と言われ、ときに「生臭い」と言われる。

 

 

 

ところで、最近明治の「おいしい牛乳」の、キャップがついている密閉容器のタイプの商品を買ったけど(みなさんご存知ですか?)、あれを開けて最初に飲んだときの感想は、やっぱり「生臭い」だったのでした。正直、あまりポジティブな印象は受けなかった。好みの問題だとは思います。でも、「生」に近ければ近いほうがいいというわけでは、決してない。

 

 

この前も書きましたが、「ピントを合わせすぎないこと」というのは重要であり、やはり「『新鮮さ』を追求しようとした結果『生臭く』なってしまった」ということがあるわけで、なにかにフォーカスしっぱなしで突き進んでしまってはいけないということがある。

 

 

人それぞれにそのピントのぼかし方(?)のバランスがあり、例えば生魚よりも焼いた魚の方が好きだという人はいるでしょうし、牛乳は嫌いだけど乳製品はいけるという人もおり、ステーキはレア派もウェルダン派もいるわけです。

 

 

「新鮮」「生臭い」という価値それぞれにピントを合わせても何もわからず、どうしても匂い・味の諸相というものが見えてこない、ということがあるんでしょう。(味なんて専門でもなんでもないのに、なんかえらそうなこと書いちゃいました。)

 

 

 

そして、最後に、おそらくみなさんには理解できないだろうということを書いておきます。「生」なものの匂いというのを言語化してみると、「『入り込みすぎたので、引き返さねばならない』と思わせる匂い、明確な形は持たず、むしろ『形』の対極にあるような匂い、ただ無意識的な引力を感じるもの」です。

食べものと飲みものについて

・最近は暑いので、涼しげな透明のグラスを買いました。コーヒーもいいけど、この時期はアイスティーもいい。紅茶を透明なグラスに入れると、その赤い色がとてもきれい。

 

 

あるとき、その赤をもっとよく見ようと思って、電灯に透かしてみたら、たちまち色あせてしまった。すぐにテーブルの上にグラスを戻した。

 

 

 

このときの気持ちは忘れないだろうと思います。

 

 

・アイスティーにしてもアイスコーヒーにしても、水出しっていうのがあります。僕はこれに少し抵抗があります。

 

そもそも紅茶やコーヒーはお湯でいれるんですが、それを氷で冷やして飲もうとすると、どうしても薄まっちゃうんですよね。だから、最初から水でいれるやり方があって、これが水出しってことですね。

 

 

でも、なんというか、「薄まるからいい」というか、そういう感覚が僕の中にはあります。コーヒーを水出しでいれるのはまだいい。けど、紅茶を水で入れちゃうのは、何か致命的な操作だという気がついてまわります。実際、味はまったく異なると思う。

 

 

多分、アイスティーを電灯に透かすことと、反対なようでいて、同じことだと思う。なにかひとつにピントを合わせすぎないこと。

 

 

 

・「つくる」を「作る」と書くことへの抵抗。

 

例えば、もう僕は「カレーを作る」という書き方はせずに、「カレーをつくる」と書くと思います。

 

 

この「ひらがなで書きたい」という気持ちは、昔の人(近代以前)は持たなかっただろうし、非日本語話者も概念以上に理解することは難しいでしょう。僕と近い年代(と言ってもそれなりに広いと思う)の日本人のみが持つ感覚だと思います。

 

特に「『料理』を作る」という書き方への抵抗は、家を出て、食べるもの、飲むものを自分が作るようになってから、特に感じます。家でごはんを作ってもらってた高校生までには、「料理を作る」と書いてもあまり違和感を感じなかったと思う。

 

 

 

「作る」ということばが与える、「無機質な操作」という印象は、自分ががんばってつくった料理を、もしくはその努力を、ないものにするような気がしたから、たぶん僕はいま違和感を感じるんだと思う。

 

だから、僕が「作る」ではなくて「つくる」と書きたい理由を、ひらがなの持つあたたかみだけに帰着させるのは、少し乱暴で、的を外れていると思う。

 

 

漢字にしてしまうと限定されてしまう「なにか」を、ひらがなにすることで限定せずにおくということ。

 

漢字が言ってしまう「なにか」を、ひらがなにして言わないでおくこと。

 

 

「なにか」に限定しないこと。「なにか」を言わないこと。ピントを合わせないこと。

 

断片

最近の書きなぐりの断片たちからいくつか。

 

 

・科学を信じるということ。オッズが高いとされている方への賭け。人生は常に、単に選択である以上に賭けである。

 

 

 

・「オッズが高いとされている」という書き方は、手が滑ったわけではありません。「確率」とはなんでしょう。

 

 

文系に進んだからといって、自然科学を否定する怪しい考え方に染まっているわけではないのでご安心を。

 

 

 

・最近の学び。”passion”は「情熱」ではなく、まず「受難」であり、「苦しみ」。これを知って、以前の自分の感情が少しだけ説明できるような気がして、少しだけ楽になった。

 

 

 

・自分で作るカフェラテはおいしい。そこそこ新鮮で挽きたての豆をエスプレッソしてるから。作り置きのカフェラテよりもおいしくて当たり前。

 

 

コーヒーにしても、ほんとうにおいしいものは、冷めてもおいしいということがある。最近は、アイスカフェラテもよく作るけど、ホットに比べてこっちの方が、顕著においしいと感じる。

 

 

スペシャルティの豆を売ってる店で、試飲させてくれるところもあります。作り置きだからたいていは冷めてるんだけど、だからといってがっかりすることはない。冷めている方が、味の違いがより明瞭に分かるということもある。

 

 

 

逆に言えば、まだ熱いときって、最高級の豆でなくたって、とってもおいしいということがよくある。もちろん、丁寧にちゃんといれればの話だけど。

 

 

これは、「演奏」もしくは「演奏会」にも同じようなことが言えると思う。

 

だからこそ僕は、僕たちの熱い音を大切に抱いていたいと思うし、僕に熱を与えてくれる演奏会にも、また足を運ぼうと思う。

目をつむってリズムを

目をつむって、リズムを刻んでみましょう。どんなリズムでも良いです。お時間があれば、お付き合いください。

 

 

断っておきますが、「音楽的スキルに関する」文章ではありませんので、気楽にやってみてください。(関連づけるのはご自由にどうぞ。)

 

 

方法は、あえて指定してみたいと思います。

 

・利き手の人差し指と中指の爪で、机などを叩いてみましょう。常に、人差し指と中指を交互に叩きます。

・音楽を聴きながら、その曲の好きなパートのリズム(メロディ、伴奏、自分の楽器、なんでもいいです)を叩きます。もしくは、例えば4拍子の曲だったら、拍頭をずっと叩くとかもあり。ワンフレーズでOK

(今練習してない曲を選ぶのがいいような気もします、演奏中変なこと考えちゃうかもしれないし。アルヴァマーとか?アルヴァマーの最初のメロディとか、とってもいいと思います)

・音楽は、極力イヤホン・ヘッドホンで聞きましょう。

・そして、ワンフレーズ聴きながら刻んでみた後に、音楽を聴かずに、同じ部分を指だけでやってみましょう。

(・スマホで録画したり、他の人に見てもらったりするのもありです。)

 

 

 

 

 

 

 

 

さて、結果は、おそらくみなさん同じようなことになるのではないかと思います。つまり、自分が思っているほどリズムを刻めていません。変なとこで叩いちゃったり、細かいリズムが詰まったりね。

 

 

けれども、私たちは「指のリズムが合っていない」と思いながら曲を聴いているわけではないと思います。だからこそ、思ったよりうまくいかないことに対して驚くわけですから。

 

 

 

もちろん、原因はいろいろ見出せます。人差し指と中指の連携とか、取りにくいリズムの傾向とか。

 

でも、僕はそんなことに全く興味が見出せません。気づいておくべきなのは、「それでも私たちは気にせずリズムを刻んでた」ってことなんじゃないでしょうか。

 

 

 

この事実から、「フィーリングの脆さ」を見出す人もいるかもしれません。もちろん、フィーリングでリズムを叩いてみると、いわば「間違い」のリズムを刻んでしまったわけですから、確かにフィーリングってものは脆いものなのでしょう。

 

 

しかしながら、「これが私たちだ」ということもまた、事実としてあります。私たちはどうしても、「リズムを間違って叩いてしまった→私たちは間違ってしまった」と安直に結論を下しがちですが、どうして「私たちは大して違和感を持たずにそのリズムを刻んだ」ということを出発点にすることが少ないのでしょう。つまり、私たちのフィーリングを出発点に置くということです。

 

 

「フィーリング」についてここまで書いたことを、単純な二分法や、善悪の問題に落とし込んで問題解決を図ることは、あまり実りの多いことではないように感じます。そうした方法を推し進めて行き着く先というのは、なんでしょうね......もちろん、すべての物事を単純化する人や、二分法があまねく世界を支配していると思っている人を、全否定するつもりはないですけどね!!それ以外の可能性・領域というのも、考えてみても良いのでは?

 

 

そんなことはさておき、みなさんご飯行きましょう。あと、お部屋が片付いたのでぜひ来てください〜〜!

地層

 演奏会のたびに、自分のだらしなさを思い知らされます。演奏会のあとに、楽譜を整理しないから。黒ファイルの中の楽譜が、溜まりに溜まっているから。

 

 

 以前は、なんとなく、スケッチブックに楽譜を貼るようにしていました。それはそれで、後から見返すと楽しいんです、アルバムみたいで。

 

 

 ブラアカでは、楽譜は黒ファイルに入れるということで統一されているので、ブラアカで使った楽譜は、僕のずぼらさも手伝って、すべてその黒ファイルの中に入っています。

 

 

 今年の駒祭でも、今までの楽譜が積み重なったそのファイルを使います。そして、今までと同じように、適当なページに、1曲目から順番に入れていきます。

 

 

 新しい楽譜を古い楽譜の上に入れる、上書きする、新しい層を積み重ねる、古い記憶を覆い隠す。

 

 

 地面に新しい土が降り積もり、地層をつくる。そうして積み重なった地層は、そのまま演奏会の記憶となる。

 

 

 

 

 今回の楽譜を入れていると、今年の新歓と五月祭で演奏した、アルメニアンの楽譜がありました。バスはしんどかったなあ。けど、五月祭では、安田講堂によく響いた、って打ち上げで言い合ったのを憶えている。

 

 

 2年前のコンクールの楽譜。1年の頃は、周りのことが見えず、あまりに身勝手に振る舞っていたから、とても反省している。

 

 

 今年の訪問演奏会の楽譜。某1年生と2人だけで頑張った。1年生は、はやりのダンスとかもやってたっけ。いや、彼らはもう2年生なんだった……

 

 

 

 

 そうした、さまざまな思いが去来する中で、自然とたどり着くのは、もうすぐそばまでやってきた、ブラアカでの3年間の終わり。

 

 

 楽譜の地層は、楽しい記憶も苦い記憶も、ひとしく教えてくれる。けれど、その地層が顧みられることさえもなくなるときが、もうすぐやってくる。演奏会を運営するのだって、もうすっかり2年生がやってくれている。頼もしいから、今回は助言すらほぼする必要もなかった。ここにいられる時間も、残り少なくなってしまったんですね。

 

 

 きっといいステージになると思います。そして、いつかファイルを開いたときには、”Shall We Brass?”という名の地層に、きらきらした宝石のような思い出をたくさん見るのだろう、と思います。