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明日は五月祭ゲネ

さて、今日の練習はあまり音程とか合ってなくて、いい合奏とはいえなかったかなーと思います(いきなりアレな話ですが)。でも、まあしょうがないかな。毎回最高の合奏になったら本当にいいと思うけど、実際モチベーションを保つというのはとっても難しいです。

 

 

 

 

 

週3回の練習が1年間続くと、何事もそうであるように、 どうしても波があります。調子のいい日があればよくない日もあると思います。それは、ある程度しょうがないことです。各個人の楽器の調子とか雰囲気とか、いろいろ要因はあるので。

 

 

 

 

でも、私たちは「本番」に向けて、もっていかないといけません(何を、と言われるとやや返答に窮しますが、調子とかモチベーション(気持ち)とかそういうのです、たぶん)。練習がいかにいいものでも、本番に気持ちが入ってなくて集中力の欠けた演奏になったら、何も意味がありません。毎回の練習が全員100%の状態っていうのは、無理です、はっきり言って。でも、本番は100%にもってかないといけないんです。

 

 

ゲネは、1つの本番だと自分は考えます。それだけ重要だし、それだけ楽しいですよね、ゲネって。(ゲネとか本番の空気感っていいですよね)

 

 

ゲネ直前の今日の合奏(というか基礎合奏?)がああいうあまりよくない状態だったのは、よくないことだ、と額面通りに受け取る人もいるかもしれません。でも、その分明日は調子が上向く、明日はいい波がくる、と自分は思っています。

 

 

 

 

明日は基礎合奏から気持ちを入れていきたいですね。そして、いい演奏、いい音楽しましょう。あの空気感楽しみましょう。

 

 

 

 

 

 

 

最後に、明日の集合時間は??

 

 

 

 

 

 

 

\11時/

今日思ったこと

 今日はまた久しぶりにいいなーと思える演奏だったように思います。

 というか、最近はなんだかなーという感じの演奏で、フラストレーションがたまっていたというか、そういう感じでした。合奏中にいろいろ言いましたが、原因はバンドだけではなく、自分にもあるんだろうなーと思い、いろいろ考えていました。

 

 指揮についても、なんでここ早く入るんだろう、とか、テンポ速いんだろう、とか、そういうとこを割と吹く人のせいにして、自分の振り方についてきて、って感じでやってたけど、”自分の表現の仕方や音楽の流れを全く妨げない範囲において”(ここ重要)、手の動かし方を色々変えてみて、そうするとこっちの振り方なら合うな、とか、こう振るとゆっくり入ってくれるんだな、とか、本当に文字通り”日々”会得しています。(確かに、指揮の先生についたり、レッスンに行ったりするのもいいと思うけど、結局こうやって実地でやっていく方がなんだかんだ早いのではないかな、と思っています。僕はプロオケやなんかを振るわけではないし。技法や身振りよりも耳とかブラアカの人との信頼関係の方がものをいうわけで。)で、こういったことと同じように、バンドの表現力とか、気持ちの入り方とかも、何かしら自分に原因があるのかなーと思いまして、模索中というところです。今日はうまくいきました、なにを変えたかは敢えて書きません笑

 

 

 

 それと、いつも言っているけれど、次の本番での演奏は、すべて自分が責任を持つことです。というのは、今日似た話があったけれど、音程や縦やバランスなどといったことは、指導する人間が練習のうちに合わせておかなければならないことです。(適度な緊張感がいい演奏を生むことはあると思いますが、)音程や縦やバランスなどといった点において、本番が練習よりうまくいくということはまずありません。(そういった点においては、)本番は練習通りやるべきことであって、奏者はいい音楽をする、ということをより指向してほしい。音楽にのめり込んでいても音程や縦が合っているようにすることが指導者の役割の一つだと思います。(もちろん、大事なことだから、音程や縦は合っていてほしいのだけれど、)いい音楽をすることに最大限注力してほしい。

 

 

 (伝わってるかな)

 

 

 

 

 本番とかゲネとかは、適度に緊張感があって自分は好きです(緊張しすぎていろいろ失敗するけど)。いいステージにしたいです。しましょう。

最近のこと

 全然書いてなかったので、最近あったことについて書こうと思います。

 主に合宿です。




 行く前は、こんなに収穫が得られると思ってなかったというか...正直秋合宿のイメージが強すぎて。秋合宿ってほんとに何しに行ったんだ感がありました。それは、自分の体調管理(というか飲み過ぎ)もあったし、それを抜きにしても、疲労困憊の中ただただ日程こなしていくみたいなとこがあったので。。


 今回は、ゴリ押してスケジュールかなり変えてもらいましたが(主に休憩増&練習減)、やってよかったー!と思いました。それでも、かなりきつかったのではないかと思います。

 自分の中では、合宿の期間だけ前後の時間軸から切り取られているような感覚が今でもあります。それは、みんながめっちゃ集中して音楽してくれたからだと思います。最後の通しとかすごくよかったし。合宿での音楽経験(?)は、駒祭の次か、駒祭に並ぶくらいいいものでした。(駒祭はブラアカに入ってから最高の音楽体験でした。)


 あと、音楽以外のこともいろいろ楽しかった。ごはんとか全体会とか、毎朝の湖1周と山登り×2とか。惜しむらくは、1年会途中で抜けちゃったこと。自分一人の体ではなくなったし、合奏中にほんの少し眠いとかもあってはいけないと思い、万全に万全を期して10時に寝た結果、翌朝は5時に目が覚めました。秋合宿では、もう少しは夜更かししてもだいじょぶそう。




 昨日は新歓ゲネでした。アンサンブルはアレでしたが、アルセナールはとてもよかったと思います。マードックは、よかったけど、もうひとつよくなると思います。口先や指だけでは、なかなかいい音楽はできませんね。


 新歓演奏会、いいものにしたいですね。明日からも練習がんばります。

「説明的」という言葉が、最近の自分の中のキーワードの一つになっているかもしれない

 最近は(特に年が明けてから)、余暇もできたので、いろいろな演奏会に行ったりなんだりで芸術に触れる機会が増え、とても充実しています。もちろん、音楽、特に吹奏楽やクラシックの演奏会に行くことも多いですが、美術館に行ったり映画を観たり、というのも結構あります。例の箱根旅行も然り。この前のぶらうぉーでの所信表明にも書きましたが、こういう芸術(だけじゃないけど)にいっぱい触れることが、とっても大切なことだと思っています。音楽にももちろんつながるけど、やっぱ人間として(?)ですよね。


 で、いろんなものを体験する中で、自分の頭の中にちらついているのが、「説明的にならない」ということです。

 


 一番最初に思ったのは、去年の12月、会期終了直前のモネ展に行った時です。よく、「印象派は光を捉えて描き…」とか言いますが、あれは本物を見ないとわからないんじゃないかな。とにかく、色の使い方がすごいっていうか、見入ってしまうんですよね。そりゃ、写真みたいにきれいで正確な絵もそれはそれでいいし、モネの絵は、割と正直何描いてるかわかんないこともある(説明がなければ。特に後期は)けど、すごく訴えかけるものがあるのは確かでした。


 それとか、ちょっと違う話なんですけど、こんな言説を見たことがあります。「「花はきれいだ」という文章がある。すると、ある人は、「きれいじゃない花もある」と言う。けれども、そこまで言ってしまった「花はきれいだ、きれいじゃない花もあるけど」という文章は全く無意味なものになってしまう」

 

 その頃ぼくらは定演の練習をしてて、クレッシェンドはこんな形で、とか、音量はこのくらいで、とかそういうことをやってた。そのときぼくは、すごい説明的な音楽だな、と思いながら練習してました(批判する意図はあんまないので勘違いしないでくださいね)。もちろんしょうがないところはあって、合奏でいろんな部分取り出したりテンポ落として練習したり音程合わせたりっていうのはすごくグロテスクな営み(だとぼくは思っている)だし、そういうのを整理していくのは合奏の役割の一つではあるし。でも、そんなことばっかり合奏でやってて、とにかくすごく説明的だなって思ってました。


 そんなことっていうのはつまり、あの頃やってたことってだいたい口で説明できることでしょ?音量とかテンポとか縦とか。

 

 よく、我々がこうやって演奏してるのは「二次創作」だって言いますよね。「一次創作」っていうのは作曲者がしてることです。なのでもちろん、楽譜通りに吹けば、作曲者が意図したある程度の演奏効果が出るわけです。でも、そういうことを完璧にやってくれる機械に演奏させても、全然音楽としてはダメで、やっぱり奏者が二次創作をしないと、つまり奏者が音楽を作っていかないといけない。

 で、それってあんまり説明できないことなんじゃないのかなと思います。ていうか、全部完璧に説明できるなら文章に書けば済む話なのであって、それでは全然表現できない、音楽でしか表現できないからぼくたちは音楽やってるんじゃないんですかね。

 絵とかもそうじゃない?モネの、一面の雪に朝日が反射してる絵(名前忘れた、よかったら調べてみて)とか、霧が出てる絵(同じく)とか、写真に撮って印刷すればそれはそれでいいし、例えば(同じ日同じ時刻に行けないという議論は無しにして)その場所に行って見ればいいみたいなこと思う人がいるかもしれない、けど、彼の筆でしか表現できない空気感みたいなものがあるんではないかなと。(伝われ)

 

 たくさん演奏会やら展覧会やらなんやらに行って感じたことは、やっぱりどの作品、演奏も説明的なものが一つもないんですよね。やりたいこととか表現したいことが、言葉を媒介しないで、すっと入ってくる感じ。(伝わってるかな)


 例えば、音楽の流れに乗って自然にクレッシェンドしてたら、聴いてる人は、別に「クレッシェンドしてる」とは感じませんよね。無意識に向こうの音楽の流れに乗るだけです。(クレッシェンドっていうのはそれ一つ独立してみえるものではなくて、音楽の流れを作る要素の一つ。) でも、音楽の流れとか何もわかってなくて、ただ機械的に「ここはこの音量からこの音量までクレッシェンド」とかいう感じにやると、聴いてる人は「この音量からこの音量にクレッシェンドした」って感じる。それは、ぶつぶつ切った部分部分だけを完成品の部品にしようとして練習してるから。そうやってグロテスクに解体した部分だけ練習してたら、音楽の流れとか分からないだろうし、況してそれを統一できますか。

 


 もちろん、音程とか縦とかいうのはすごく大事で、ぼくもそれは合奏で第一にやるべきこと、というか、前提?だと思います。それができてないと、極論音楽じゃないし。


 今、とにかく表現とかの前に音程が悪い、それが気になるっていうのは、大きな課題だと思います。これは、個人練で解決してほしいというのが本音だけど、うちはサークルだし、そこまで強制できないから、自分が基礎合奏やら合奏やらの中でやっていかないとなーと思っています。それと、合奏をいいものにして、「音程を合わせたい」とか「音程良くなりたい」とか「縦揃えたい」とか「もっと個人練したい」とか思わせられるようにしたい。「しなきゃ」じゃなくて。音程合わせろって言ってやらせてるうちはいいものできないんじゃないかなーと。そのためにどうしたらいいかは模索中。まずは、いっぱいいい音楽を聴いてほしいんだけど、それも押し付ければいいってもんじゃないからなー。(ちょっと前はいろんな人にそういうのを聴け聴けって押し付けてきたので、それは反省。人それぞれの価値観もあるし。)

 それに、訪問の曲はポップスばっかりで、楽譜通り吹くに尽きるって感じの曲が多くて、あんまり二次創作とかいう段階はない(曲は嫌いじゃない)ので、今はどうしようもないけど、マードックとかやるときには、説明的な音楽にならないようにしないとなーと思ってます。というか、そういうところは早くクリアして、さらに上の段階にいきたい。それが大変なんだけど……。


 でも、やる自信はあります。というか、やらなくちゃいけない。私たちは、一人ひとり音楽家でなければならない。演奏会本番直前になってまで、メイン曲のテンポが定まってないとかは、切なすぎる。せっかくいい曲なんだし、しっかり曲を咀嚼して、表現できるようになりたいものです。(この前書いたマードックのストーリーは、その咀嚼に役立ててほしいという趣旨のものです)

 

 

 訪問の曲は、楽しい曲ばっかなので、それが伝わればいいな。生徒が100人いて1人でも、なんだか楽しい、音楽っていいな、って思ってくれる人がいれば、本望です。幸せであります。

 そして、この話を100人に1人でも理解して、共感してもらえる人がいれば、やはり幸せなのであります。

明日は訪問ゲネ

 最近は訪問の練習ばかりになっています。訪問は、ポップス曲メインで曲数は多いので、練習の組み方が難しい……とか言いつつもうゲネになってしまいました。


 訪問は、乗るって人も少なくて、合奏どんな感じになるんだろうって思ってました。有り体に言えば、全体のモチベが低いんじゃないかって思ってたってことです。ポップスばっかりだし、簡単でしょみたいな。


 実際、最初の方はそういう感じを嗅ぎ取って、ヤバイなと思いました。で、基礎合奏からきちんと妥協しないように取り組みました。曲も、縦が合ってないとか、吹けてないとか、それなりに厳しくみました。高校の時に比べたら全然だけど、それでも今までの合奏よりは大変だと思います。

 

 そうすると、けっこうみんなついてきてくれて、最近の合奏はとても楽しい。集中してくれているので、いろんなこと言っても全部やってくれる。

 


 はっきり言って、(この前の帰りの会でも言ったけど、)このまま訪問やろうと思えばやれるという段階になってます。曲も演出も、ところどころミスはあるけど、それなりにできてるし。


 でも、せっかくやるからには、「それなり」ではいけないと思っています。フレーズの流れとか細かい縦とかハーモニーとか、そういうところまで詰めていかないと。ましてやミスとか、違和感がある演奏とかは×。演出も、1人でも間違えてたらダメです。

 


 …….と書いて明日のゲネへのプレッシャーを高める11時過ぎ。みんな確認しといてー笑

マードックについて(完結編)

 いよいよクライマックスです。


 ・O

 昨日も書いてしまいましたが、ここからは天国のマードックを描いていく場面だと思います。このOはその始まり。天国へと昇っていくマードックと、彼を暖かく迎え入れる神様(or天使たち?)を描いている場面です。

 樽屋氏は、キリスト教に関連する事柄を題材に取ることが多いです。この曲はそういうわけではありませんが、まず楽曲解説にもある通り、アイリッシュな曲です(タイタニックを所有していたWhite Star Line社はイギリスの海運企業。マードックスコットランド出身です)。また、マードックはクリスチャンです(当然だろうと思いましたが、一応調べました。結婚式をセント・デニーズ教会というサウサンプトンの教会で挙げていることから分かりました)。

 やはり、樽屋氏の作風にも曲の背景にも、キリスト教というのがあります。なので、ここ以降は、天国へ行ったマードックを描いていると解釈するのが自然かなと思います。


 ・P

 音楽は緊張と緩和でできています。この話は長くなってしまうと思うので割愛しますが、たぶんだいたいわかってもらえるのではないかと思います。

 で、Oの場面は緩和している場面です。幸せとか、心地よいとか、そういう感情が前に出ています。しかし、Pでは、少し緊張が出てきます。悲しいとか、切ないとかが顔を出していると思うのです。

 天国に行くということは、幸せなことでしょう(地獄に落ちなかったという意味で、また美しく理想的な世界に住むことができるという意味で。天国は理想的な世界であるからこそ、絵画や音楽など、美しい形で様々に表現されてきたのです、きれいじゃない天国の絵とかないでしょ?……とかは長くなるので割愛)。ですが、愛する人々との別離というのは、悲しいことです(死というものがそれほど悲しくこわいものだったからこそ、死後の世界である天国を殊更に美化したのではないでしょうか……とかも割愛)。それに、冷たい海(零下2度だったそうです)で死んでいくのがどれだけ寂しくて痛くてつらいことだったか。

 Oからのクライマックスの場面で、一番切なさが前面に出てくる場面は、このPです。この場面で描かれているのは、こうしたマードックの内面、天国に行けたとしても癒されることのない傷なのかな、と思います。


 ・Q

 Oと同じ旋律に戻ってきます。場面も、緩和の場面になってきます。旋律も伴奏も厚みが増すのは、天国の世界とか、神様とか天使とかが、マードックの悲しみや痛み、切なさを感じ取って、癒そうとしているのかなーとか思います(完全に妄想)。


 ・R

 ものすごくドラマティックですよね。普通に幸せに天国で暮らしていきました、とかいう感じではないです。なにか圧倒的な喜びのエネルギーを感じます。

 (で、ここからもかなり想像なのですが、)マードックは最後まで乗客の救助に尽力したと史実にあります。事実、彼は右舷側で指揮を執っていたのですが、左舷側よりも生存者が多かったとのことです。マードックが、文字通り命を懸けた結果、多くの人が救われた。これを、マードックは天国から見下ろしていると思うのです。

 彼はどんな気持ちでしょうか。自分は死んでしまい、手紙を書くことも、船に乗ることも、愛する人々と会うことも叶いません。しかし、彼の献身によって、数百人もの人々が、自分のような目に遭わずにすんだのです。マードックにとっては無上の喜びだと思います。その感情が前面に出ているのではないでしょうか。

 でも、100%うれしい幸せという感じではないです。冒頭とは違って、胸が引き裂かれるような感じも受けます。これは、Pで書いたような感情を背負っているからかなと思います。


 ・S

 Sの2小節前から、5連符や変拍子が現れます。冒頭、Aのところでも書きましたが、時空を揺らしてる感じがします。そう、私たちはマードックタイタニックのいる世界から、元の世界に帰ってきます。
 
 それで、ここで出すのはタイミングがアレなのですが、樽屋氏の楽曲解説の最後には、「マードックからの最後の手紙を”読む”ように聴いていただけたらと思います。」とあります。私たちは、冒頭でマードックの手紙を見つけます。そしてそれを今まで”読んで”、本来の手紙には書かれていないはずのマードックの死後も含めて、追体験してきたのです。

 そして我々は、Sで元の世界に戻ってくるのです。マードックの悲しい感情も喜びも全て呑み込んで、ここでは何が表現されるのかというと、それは各人の想像に任せるべきことだと思います。というのも、ここで表現されるのは、この物語(音楽)を経て得たものだと思うからです。私たち、あるいは友人、あるいは家族が生きているということへの喜びであったり、神の存在への崇敬の念だったりするかもしれません。しかし、それはこれ!と断定することができるものではないと思います。ここまでの物語を経て、各人の胸中に去来するものであると思います。それが何なのか、感じ取るにはまだあまりに合奏が足りません。たくさん吹いていくうちに、わかってくるのではないでしょうか。それこそが、この音楽を通して得るものなのかもしれません。

 


 ということで、終わりです。よかったらみなさんもいろいろ想像してみてください。

マードックについて(続々編)

    まず、昨日の分の補足を。


 Piu MossoのShips Bellについてですが、氷山発見後見張り員が鐘を鳴らした、という記録があります。ので、やはり昨日の解釈で妥当かなーと(それだけです)。



 正直なところ、ここからの荒れる場面は物凄く好きというわけではないので、ちょっと適当になったらごめんなさい。



 ・I、J
 ここでは、もうタイタニックは氷山にぶつかってしまっています。どこでぶつかったか、というとよく分かりませんが、強いて言うならIのところのダブルバーの瞬間かな。

 で、直管の旋律はけっこう力強いです。タイタニックは世界最大の客船であり、沈没するということは当時考えられませんでした。ですから、危機感は感じ取れるものの、焦燥感とか、そういうものはあまり感じませんね。直管に割り振られていることからも、力強さを出すところです。

 また、映画にも描かれていますが、沈没する直前まで、事故に関して楽観的な乗客も多数いました。それほどにタイタニックの沈没はありえないことだと思われていたのでしょうが、これが、87小節目からのメロディーではないでしょうか。楽観的な気持ちと不安がないまぜになったような感じです。

 Jでは、層も増し、その感じが強まります。


 ・K

 Kでは、少しテンポが落ち、勢いは落ちたように思います。というか、IやJではある目的地に向かって驀進する巨軀の姿が見えますが、ここでは、目的地に向かって進むというより、あたふたしている感じがします。

 木管の連符は、直感的には海を表しているように思います。乗客が焦っている様子にも見えます。マードックら乗員が、救命ボートに乗客を乗せるのを急いでいるようにも聴こえます。とにかく、いろいろなものが入り乱れているようです(これ!といういい着想はありませんが)。そして、105小節目にある金管木管低音の動きは、漠然とですが、「沈没」とか、その恐怖みたいなものかなと思います。


 ・L

 難しいですね。いろいろな楽器が吹いていたのですが、ここではほぼ1つ(Bodhran Solo)です。たくさん人がいる中でクローズアップされるべき人。この作品ではマードックをおいて他にいないでしょう。

 彼が何を思っているのか分かりませんが、史実にあるのは、彼が最後まで勇敢に乗客の救助に当たったということ。この4小節の中でも、少し変化を感じます。つまり、大まかに見れば、前の2小節よりも後の2小節の方が、力強さや決意を感じます。具体的に譜面で見ると、アクセントが強拍にきていること、アクセントの音の多さ、B.D.のリズムなどからみてとれるのではないでしょうか。特に最後は、彼の決意を感じます。


 ・M

 Mでは場面が戻りますが、完全に同じわけではなく、Hrn.,Sax.の上行音型が焦燥感、また避けられない船の運命を感じさせます。そしてAccel.によりそれは加速していき、5度(4度)のTuttiで。

 何回も映画の話になってしまい申し訳ないのですが、映画では、船が真っ二つに折れてしまいます。そして、船首と船尾をそれぞれ上にして、沈んでいってしまうのです。このTuttiはまさにその場面ではないでしょうか。少し想像してみてください。主人公は船尾にいます。船が折れ、だんだんと船尾を持ち上げるようにして船は傾いていきます。そして、船尾が最高点に達してから、沈み始めるまで、奇妙に安定する一瞬がありますよね。119小節目と120小節目の間の小節線(Tuttiが終わった瞬間)がそこかなーと思います(伝わってるでしょうか笑)。そうなると、TuttiまでのAccel.は、だんだん船が傾いているようにも聴こえます。

 そして、Kで言及した「沈没」のテーマが戻ってきます。そして最後はそのTuttiですね。船は沈没してしまいます。


 ・N

 ここも難しい場面ですが、既に船が沈んだのは明らかです。では、沈没後、人々が漂流している様子なのでしょうか。

 自分は絶対に違うと思っています。これはマードックの物語であり(途中映画を着想に使いましたが、あくまでアイデアとしてです)、そしてそのマードックは沈没した船と運命を共にしています。先ほど、Mで船が沈没したと書きましたが、更に言えばマードックが死んだのです。となると、ここはどんな場面なのでしょう。

 またまた先取りしてしまう形になりますが、Oからは、死んだマードックが天国でゆっくり温かく迎え入れられる場面だと思っています。Mではマードックが死に、Oでは天国へ。ということは、その中間のNは、マードック(の意識)が、自らの肉体の死に気づいた、そんな場面ではないでしょうか。自分は死んでしまったのか。そんな、声にならないつぶやきが聞こえるような気がします(ちょっと言いすぎかな?でも独白という感じがめっちゃします)。



 さて、今日はここまでです。読んでくださってありがとうございます。おそらく明日完結です。