駒場祭を前にして

 アカウント名を変えて久しいですね。虚無おじさんです。寒かったですね。いよいよ、明日から駒場祭です。

 

 

 駒祭に向けては、各所で相当前から準備がなされてきたと思いますが、僕がみなさんと直接関わるのは演奏なので、その意味では8月末に始動したということになるでしょうか。それから約3ヶ月弱、僕が一番力を入れたのは、サウンドの改善です。

 

 

 

 1年生が加わった状態で自分が曲を振り始めた夏休み明けの時期は、正直サウンドとしては新歓演奏会を上回ることはないな、と思っていました、失礼な話ですが(新歓の頃はとてもいいサウンドだったと思いますが、3年生に頼っていたのですね)。それくらい悲観すべき状況でした。

 

 

 チューニングにしても、これは僕が引退するまでの向こう1年半で合うことはないかもしれない、くらいに思っていましたが、演リーを中心にパートチューニングをしてくれたり、もちろん個人でもよくチューニングしてくれたり、ということもあって、かなり改善されてきています。あまり気づいていない人もいるかもしれませんが、上手くなってるんです、ほんとうに。

 

 

 そして、その土台の上で、最近は、(実感している人もいると思いますが、)新歓の頃とはまた違った方向のサウンドが見えてきています、奏者が違うので当然のことなのですが。そして、これはこれで、なかなかいい方向に進んでいっているという実感もあります。最近の音、ほんとうにいいと思います。

 

 

 

 そうしてつくられた音が、演奏会で日の目を見る、それが僕はとても楽しみです。音だけではなくて、というのは駒祭の宣伝文でよく見かける文句ですが、これもほんとうにそうです。すてきな装飾、センスあるデザインのビラや立て看板、映画祭といえばこれでしょう、という譜面紙、演奏会を形作るピースの1つ1つが、とても大切に感じられます(いとおしい、と書いたら少し気持ちわるいかなと思い自重)。

 

 

 

 後悔のないように、というと後ろ向きな感じがしますが、いい演奏会にするために、まだできることはあります(まずは体調管理から…!)。明後日の今ごろは2次会突入しちゃってるんですね、もうブラアカ映画祭!終わってるんですね。そこまでアクセル踏みっぱなしです。

 

 

 

 明日、明後日、楽しみましょう。いい演奏会にしましょう。

ブラアカに対する姿勢について、思ったこと

このサークルに対してどのような姿勢を取ればよいか、というのは、一度は考えたことがあるのではないでしょうか。僕もよくこの問題(?)に悩まされるのですが、コンクールの奏者アンケートに目を通したことをきっかけとして、考えをまとめるべきだな、と思い、今までの断片的な思考を整理することにしました。こういう立場でやってます、という表明でもあるかもしれません(?)

 

 

 

 

 

まず、音楽サークルである以上、演奏会に聴きに来てくださる方々がおられる以上、質の高い音楽を目指さなくてはならない、というのは前提条件だと思います。

 

 

 

正直、例えば今回の駒場祭演奏会だと、なんとか通るぐらいの演奏でよければ、3,4回も練習があればなんとかなります。譜読み合奏して、落ちそうなところを確認すればいいので。あとはゲネをやって流れを確認すれば、2週間で音楽”のようなもの”ならできますし、演奏会もできます。

 

 

 

 

でも、それでいいと思う奏者はほぼいないでしょうし、聴衆は言わずもがなです。いい演奏をするために、合奏でいろいろと指示を出すわけで、これは許容してもらわないといけないと思います。

 

 

 

 

 

じゃあ練習は毎回参加必須か、というと、それは全く見当外れだと思います。

 

 

 

 

 

 

実際、「練習の参加率が低いのは良くないことだ」という言説を耳にすることは多くて、まあそれは参加率が低くていいことはあまりないのですが、それはこのサークルにとって、ということであって。

 

 

 

僕たちの時間は、このサークルだけをやるためにあるわけじゃなくて、勉強や他のサークルや、バイトや遊びのためにもあるのであって、その中での優先順位は人それぞれです(だいたい、新歓のときとは練習参加率に対するニュアンスが違いすぎる…)。それを「練習の参加率が~~」と言ってしまうのは、やや視野狭窄だと思ってしまいます。

 

 

 

 

どれだけ時間を割くか、つまり正規練にどれだけ参加するか、個人練をどのくらいするか…とか言ったことは、完全に個人の裁量だと思います。

 

 

 

 

 

 

でも、練習時間が多い方が、例えば個人練を全くしない人と毎日する人だったら、後者の方が、いい音楽を目指す上で望ましいのではないか、と思う人もいるかもしれません。

 

 

 

 

まあそれは望ましいは望ましいかもしれませんが、結局はやはり個人の裁量、個人練を全くしなくても、毎日しても、どれだけ時間を割くか=このサークルの優先順位をどう位置付けるか、というのは自由だと思います。

 

 

 

 

ただ、最初に言った通り、いい音楽を志向しないといけなくて、じゃあ個人練ゼロでもいいのって言ったらそれはよくて、その代わり、参加する練習の時間はちゃんとやりましょう、っていうことで成り立つんだと思います。その自由な参加を求める中で、結果を出す(=いい演奏に持っていく)のが、指導者の仕事です。もちろん個人練してくれてたらうれしいけど。

 

 

 

 

なんだか、個人練習はしないといけなくて、練習も毎回参加にしないといけなくて…というのは変なところを締め付けているような気がします。じゃあ練習あまり来れない人は演奏会から下ろしますか?個人練の時間取れない人は下ろしますか?違いますよね。(そういえば、いつか合宿に参加するのも義務だという言説も見た)

 

 

 

 

 

団体でやってて、しかもサークルである以上、団体で練習してるところ(=正規練)以外での演奏の伸びというのは、あまり計算に入れるべきではないと思います。(演奏会当日とかゲネとか、そんなのは除いて)人の時間の使い方を決める権限をサークルは持たないと思うわけです。

 

 

 

 

 

 

とまあ例によってぐだったわけですが、いい音楽、いい演奏会にしましょう、でも練習参加は自由で、その出てる練習はちゃんとやりましょう、ということなのかなー。

 

 

 

真剣に音楽に向き合うことはとてもいいことだと思うのですが、それがやや暴走して、他の人にまでそれを強いる、ということもあると思います(そういう空気がこのサークルでもややあると思います)が、それは少し危険なことですよ、という警告の意がないでもないです。

 

 

 

 

こういう立場でやってます、ということなので、駒祭乗り降り迷ってらっしゃるみなさんは乗っていきましょう!(お願いします)

コンクール前夜の徒然

久しぶりに更新します(というか存在忘れてました)。

 

久々に開いた割にはアクセスが伸びているようで、どうやら「マードック 解説」「マードックからの最後の手紙 解説」とかでGoogle/Yahoo!で検索して、そこからアクセスという人が多いようです。(上記ワードで検索すると、それなりに上位(2ページ目くらい)に出てくるようになったらしい(!?))

 

 

さて、今学期とっていた授業のレポートの関係で、絵画(特にイタリア・ルネサンス)について調べ物をすることが多かったのですが、図書館の関連の資料の隣にゴシックについての図版集があって、面白そうだな、と手に取ってみたわけです。開いてみると、13世紀フランスの聖堂建築の図版が載っている。

 

僕は単純なので、建築物を見ると、造形や様式やなんかよりも先に「こんな高いところまでどうやって壁を作ったんだろう、すげえ」とか思ってしまいます。小学生の頃からあまり変わらずに抱く感想です。幼稚ですね。進歩がない。その本に載っていた、ゴシック様式の壮麗な聖堂の内部の図版を見ても、「きれいだなあ、こんな高い建物、よく作れるなあ」。

 

 

単純な発想ですが、考えてみれば至極当然の発想のような気がします。だって、自分ではそんな高い建物は建てられないし、美しい様式、造形は生み出せないでしょう?

 

芸術全般に同じことは言えて、絵画にしても建築にしても、描く(作る、建てる)方法(時には様式も)が生み出され、(そしてそれを利用して)天才の技術と感性をもって素晴らしい作品ができるわけですよね。割と情報が氾濫しているせいで、そういったことへの驚きや感動が薄れがちなわけですが。

 

 

 

音楽というのはまさにそうで、今まで長い間研究され続けてきた音楽の(特に西洋音楽の)理論がもとになって、作曲家の技術と感性がそれぞれの作品を生み出しています。

 

 

 

先日のカウントダウンで、「尊敬できる職業は...」と話している人がいたけれど、僕は、作曲家、芸術家は尊敬に値すると思います。スコアを見るたびに、本当にすごいと感じます。

 

僕には(少なくとも今は)絶対に曲は書けないし、メロディの1つも思い浮かばないだろうし(ましてや吹奏楽曲なんて!)、それらしきものが書けたところで、メロディはきっとどこかで聞いたことがあり、故に個性なんてものはなく、さらに音楽理論的にも欠陥だらけということになるでしょう。

 

 

そして、彼らの生み出す曲、つまりその作曲家の個性や感性に、和声やリズムやメロディや展開などを通して(この辺はあまり意識していないかもしれませんが、きっと無意識に感じているはずです)触れることができるということは、本当に素晴らしいと思います。

 

 

 

今回のコンクールでも、今まで僕の演奏したことのなかった2人の作曲家の曲を演奏していく中で、やはり感じるもの、得るものは相応にあったわけです。僕はコンクールに乗ることができて、それが一番良かったと言えるかもしれません。

 

 

 

それぞれに思うことはあるのだと思いますが、まずはこの素晴らしい作品を演奏できること、素晴らしい才能に触れることができていることに、感謝したいものです。

 

 

 

明日はいい本番にしましょう!

明日は五月祭ゲネ

さて、今日の練習はあまり音程とか合ってなくて、いい合奏とはいえなかったかなーと思います(いきなりアレな話ですが)。でも、まあしょうがないかな。毎回最高の合奏になったら本当にいいと思うけど、実際モチベーションを保つというのはとっても難しいです。

 

 

 

 

 

週3回の練習が1年間続くと、何事もそうであるように、 どうしても波があります。調子のいい日があればよくない日もあると思います。それは、ある程度しょうがないことです。各個人の楽器の調子とか雰囲気とか、いろいろ要因はあるので。

 

 

 

 

でも、私たちは「本番」に向けて、もっていかないといけません(何を、と言われるとやや返答に窮しますが、調子とかモチベーション(気持ち)とかそういうのです、たぶん)。練習がいかにいいものでも、本番に気持ちが入ってなくて集中力の欠けた演奏になったら、何も意味がありません。毎回の練習が全員100%の状態っていうのは、無理です、はっきり言って。でも、本番は100%にもってかないといけないんです。

 

 

ゲネは、1つの本番だと自分は考えます。それだけ重要だし、それだけ楽しいですよね、ゲネって。(ゲネとか本番の空気感っていいですよね)

 

 

ゲネ直前の今日の合奏(というか基礎合奏?)がああいうあまりよくない状態だったのは、よくないことだ、と額面通りに受け取る人もいるかもしれません。でも、その分明日は調子が上向く、明日はいい波がくる、と自分は思っています。

 

 

 

 

明日は基礎合奏から気持ちを入れていきたいですね。そして、いい演奏、いい音楽しましょう。あの空気感楽しみましょう。

 

 

 

 

 

 

 

最後に、明日の集合時間は??

 

 

 

 

 

 

 

\11時/

今日思ったこと

 今日はまた久しぶりにいいなーと思える演奏だったように思います。

 というか、最近はなんだかなーという感じの演奏で、フラストレーションがたまっていたというか、そういう感じでした。合奏中にいろいろ言いましたが、原因はバンドだけではなく、自分にもあるんだろうなーと思い、いろいろ考えていました。

 

 指揮についても、なんでここ早く入るんだろう、とか、テンポ速いんだろう、とか、そういうとこを割と吹く人のせいにして、自分の振り方についてきて、って感じでやってたけど、”自分の表現の仕方や音楽の流れを全く妨げない範囲において”(ここ重要)、手の動かし方を色々変えてみて、そうするとこっちの振り方なら合うな、とか、こう振るとゆっくり入ってくれるんだな、とか、本当に文字通り”日々”会得しています。(確かに、指揮の先生についたり、レッスンに行ったりするのもいいと思うけど、結局こうやって実地でやっていく方がなんだかんだ早いのではないかな、と思っています。僕はプロオケやなんかを振るわけではないし。技法や身振りよりも耳とかブラアカの人との信頼関係の方がものをいうわけで。)で、こういったことと同じように、バンドの表現力とか、気持ちの入り方とかも、何かしら自分に原因があるのかなーと思いまして、模索中というところです。今日はうまくいきました、なにを変えたかは敢えて書きません笑

 

 

 

 それと、いつも言っているけれど、次の本番での演奏は、すべて自分が責任を持つことです。というのは、今日似た話があったけれど、音程や縦やバランスなどといったことは、指導する人間が練習のうちに合わせておかなければならないことです。(適度な緊張感がいい演奏を生むことはあると思いますが、)音程や縦やバランスなどといった点において、本番が練習よりうまくいくということはまずありません。(そういった点においては、)本番は練習通りやるべきことであって、奏者はいい音楽をする、ということをより指向してほしい。音楽にのめり込んでいても音程や縦が合っているようにすることが指導者の役割の一つだと思います。(もちろん、大事なことだから、音程や縦は合っていてほしいのだけれど、)いい音楽をすることに最大限注力してほしい。

 

 

 (伝わってるかな)

 

 

 

 

 本番とかゲネとかは、適度に緊張感があって自分は好きです(緊張しすぎていろいろ失敗するけど)。いいステージにしたいです。しましょう。

最近のこと

 全然書いてなかったので、最近あったことについて書こうと思います。

 主に合宿です。




 行く前は、こんなに収穫が得られると思ってなかったというか...正直秋合宿のイメージが強すぎて。秋合宿ってほんとに何しに行ったんだ感がありました。それは、自分の体調管理(というか飲み過ぎ)もあったし、それを抜きにしても、疲労困憊の中ただただ日程こなしていくみたいなとこがあったので。。


 今回は、ゴリ押してスケジュールかなり変えてもらいましたが(主に休憩増&練習減)、やってよかったー!と思いました。それでも、かなりきつかったのではないかと思います。

 自分の中では、合宿の期間だけ前後の時間軸から切り取られているような感覚が今でもあります。それは、みんながめっちゃ集中して音楽してくれたからだと思います。最後の通しとかすごくよかったし。合宿での音楽経験(?)は、駒祭の次か、駒祭に並ぶくらいいいものでした。(駒祭はブラアカに入ってから最高の音楽体験でした。)


 あと、音楽以外のこともいろいろ楽しかった。ごはんとか全体会とか、毎朝の湖1周と山登り×2とか。惜しむらくは、1年会途中で抜けちゃったこと。自分一人の体ではなくなったし、合奏中にほんの少し眠いとかもあってはいけないと思い、万全に万全を期して10時に寝た結果、翌朝は5時に目が覚めました。秋合宿では、もう少しは夜更かししてもだいじょぶそう。




 昨日は新歓ゲネでした。アンサンブルはアレでしたが、アルセナールはとてもよかったと思います。マードックは、よかったけど、もうひとつよくなると思います。口先や指だけでは、なかなかいい音楽はできませんね。


 新歓演奏会、いいものにしたいですね。明日からも練習がんばります。

「説明的」という言葉が、最近の自分の中のキーワードの一つになっているかもしれない

 最近は(特に年が明けてから)、余暇もできたので、いろいろな演奏会に行ったりなんだりで芸術に触れる機会が増え、とても充実しています。もちろん、音楽、特に吹奏楽やクラシックの演奏会に行くことも多いですが、美術館に行ったり映画を観たり、というのも結構あります。例の箱根旅行も然り。この前のぶらうぉーでの所信表明にも書きましたが、こういう芸術(だけじゃないけど)にいっぱい触れることが、とっても大切なことだと思っています。音楽にももちろんつながるけど、やっぱ人間として(?)ですよね。


 で、いろんなものを体験する中で、自分の頭の中にちらついているのが、「説明的にならない」ということです。

 


 一番最初に思ったのは、去年の12月、会期終了直前のモネ展に行った時です。よく、「印象派は光を捉えて描き…」とか言いますが、あれは本物を見ないとわからないんじゃないかな。とにかく、色の使い方がすごいっていうか、見入ってしまうんですよね。そりゃ、写真みたいにきれいで正確な絵もそれはそれでいいし、モネの絵は、割と正直何描いてるかわかんないこともある(説明がなければ。特に後期は)けど、すごく訴えかけるものがあるのは確かでした。


 それとか、ちょっと違う話なんですけど、こんな言説を見たことがあります。「「花はきれいだ」という文章がある。すると、ある人は、「きれいじゃない花もある」と言う。けれども、そこまで言ってしまった「花はきれいだ、きれいじゃない花もあるけど」という文章は全く無意味なものになってしまう」

 

 その頃ぼくらは定演の練習をしてて、クレッシェンドはこんな形で、とか、音量はこのくらいで、とかそういうことをやってた。そのときぼくは、すごい説明的な音楽だな、と思いながら練習してました(批判する意図はあんまないので勘違いしないでくださいね)。もちろんしょうがないところはあって、合奏でいろんな部分取り出したりテンポ落として練習したり音程合わせたりっていうのはすごくグロテスクな営み(だとぼくは思っている)だし、そういうのを整理していくのは合奏の役割の一つではあるし。でも、そんなことばっかり合奏でやってて、とにかくすごく説明的だなって思ってました。


 そんなことっていうのはつまり、あの頃やってたことってだいたい口で説明できることでしょ?音量とかテンポとか縦とか。

 

 よく、我々がこうやって演奏してるのは「二次創作」だって言いますよね。「一次創作」っていうのは作曲者がしてることです。なのでもちろん、楽譜通りに吹けば、作曲者が意図したある程度の演奏効果が出るわけです。でも、そういうことを完璧にやってくれる機械に演奏させても、全然音楽としてはダメで、やっぱり奏者が二次創作をしないと、つまり奏者が音楽を作っていかないといけない。

 で、それってあんまり説明できないことなんじゃないのかなと思います。ていうか、全部完璧に説明できるなら文章に書けば済む話なのであって、それでは全然表現できない、音楽でしか表現できないからぼくたちは音楽やってるんじゃないんですかね。

 絵とかもそうじゃない?モネの、一面の雪に朝日が反射してる絵(名前忘れた、よかったら調べてみて)とか、霧が出てる絵(同じく)とか、写真に撮って印刷すればそれはそれでいいし、例えば(同じ日同じ時刻に行けないという議論は無しにして)その場所に行って見ればいいみたいなこと思う人がいるかもしれない、けど、彼の筆でしか表現できない空気感みたいなものがあるんではないかなと。(伝われ)

 

 たくさん演奏会やら展覧会やらなんやらに行って感じたことは、やっぱりどの作品、演奏も説明的なものが一つもないんですよね。やりたいこととか表現したいことが、言葉を媒介しないで、すっと入ってくる感じ。(伝わってるかな)


 例えば、音楽の流れに乗って自然にクレッシェンドしてたら、聴いてる人は、別に「クレッシェンドしてる」とは感じませんよね。無意識に向こうの音楽の流れに乗るだけです。(クレッシェンドっていうのはそれ一つ独立してみえるものではなくて、音楽の流れを作る要素の一つ。) でも、音楽の流れとか何もわかってなくて、ただ機械的に「ここはこの音量からこの音量までクレッシェンド」とかいう感じにやると、聴いてる人は「この音量からこの音量にクレッシェンドした」って感じる。それは、ぶつぶつ切った部分部分だけを完成品の部品にしようとして練習してるから。そうやってグロテスクに解体した部分だけ練習してたら、音楽の流れとか分からないだろうし、況してそれを統一できますか。

 


 もちろん、音程とか縦とかいうのはすごく大事で、ぼくもそれは合奏で第一にやるべきこと、というか、前提?だと思います。それができてないと、極論音楽じゃないし。


 今、とにかく表現とかの前に音程が悪い、それが気になるっていうのは、大きな課題だと思います。これは、個人練で解決してほしいというのが本音だけど、うちはサークルだし、そこまで強制できないから、自分が基礎合奏やら合奏やらの中でやっていかないとなーと思っています。それと、合奏をいいものにして、「音程を合わせたい」とか「音程良くなりたい」とか「縦揃えたい」とか「もっと個人練したい」とか思わせられるようにしたい。「しなきゃ」じゃなくて。音程合わせろって言ってやらせてるうちはいいものできないんじゃないかなーと。そのためにどうしたらいいかは模索中。まずは、いっぱいいい音楽を聴いてほしいんだけど、それも押し付ければいいってもんじゃないからなー。(ちょっと前はいろんな人にそういうのを聴け聴けって押し付けてきたので、それは反省。人それぞれの価値観もあるし。)

 それに、訪問の曲はポップスばっかりで、楽譜通り吹くに尽きるって感じの曲が多くて、あんまり二次創作とかいう段階はない(曲は嫌いじゃない)ので、今はどうしようもないけど、マードックとかやるときには、説明的な音楽にならないようにしないとなーと思ってます。というか、そういうところは早くクリアして、さらに上の段階にいきたい。それが大変なんだけど……。


 でも、やる自信はあります。というか、やらなくちゃいけない。私たちは、一人ひとり音楽家でなければならない。演奏会本番直前になってまで、メイン曲のテンポが定まってないとかは、切なすぎる。せっかくいい曲なんだし、しっかり曲を咀嚼して、表現できるようになりたいものです。(この前書いたマードックのストーリーは、その咀嚼に役立ててほしいという趣旨のものです)

 

 

 訪問の曲は、楽しい曲ばっかなので、それが伝わればいいな。生徒が100人いて1人でも、なんだか楽しい、音楽っていいな、って思ってくれる人がいれば、本望です。幸せであります。

 そして、この話を100人に1人でも理解して、共感してもらえる人がいれば、やはり幸せなのであります。