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「説明的」という言葉が、最近の自分の中のキーワードの一つになっているかもしれない

 最近は(特に年が明けてから)、余暇もできたので、いろいろな演奏会に行ったりなんだりで芸術に触れる機会が増え、とても充実しています。もちろん、音楽、特に吹奏楽やクラシックの演奏会に行くことも多いですが、美術館に行ったり映画を観たり、というのも結構あります。例の箱根旅行も然り。この前のぶらうぉーでの所信表明にも書きましたが、こういう芸術(だけじゃないけど)にいっぱい触れることが、とっても大切なことだと思っています。音楽にももちろんつながるけど、やっぱ人間として(?)ですよね。


 で、いろんなものを体験する中で、自分の頭の中にちらついているのが、「説明的にならない」ということです。

 


 一番最初に思ったのは、去年の12月、会期終了直前のモネ展に行った時です。よく、「印象派は光を捉えて描き…」とか言いますが、あれは本物を見ないとわからないんじゃないかな。とにかく、色の使い方がすごいっていうか、見入ってしまうんですよね。そりゃ、写真みたいにきれいで正確な絵もそれはそれでいいし、モネの絵は、割と正直何描いてるかわかんないこともある(説明がなければ。特に後期は)けど、すごく訴えかけるものがあるのは確かでした。


 それとか、ちょっと違う話なんですけど、こんな言説を見たことがあります。「「花はきれいだ」という文章がある。すると、ある人は、「きれいじゃない花もある」と言う。けれども、そこまで言ってしまった「花はきれいだ、きれいじゃない花もあるけど」という文章は全く無意味なものになってしまう」

 

 その頃ぼくらは定演の練習をしてて、クレッシェンドはこんな形で、とか、音量はこのくらいで、とかそういうことをやってた。そのときぼくは、すごい説明的な音楽だな、と思いながら練習してました(批判する意図はあんまないので勘違いしないでくださいね)。もちろんしょうがないところはあって、合奏でいろんな部分取り出したりテンポ落として練習したり音程合わせたりっていうのはすごくグロテスクな営み(だとぼくは思っている)だし、そういうのを整理していくのは合奏の役割の一つではあるし。でも、そんなことばっかり合奏でやってて、とにかくすごく説明的だなって思ってました。


 そんなことっていうのはつまり、あの頃やってたことってだいたい口で説明できることでしょ?音量とかテンポとか縦とか。

 

 よく、我々がこうやって演奏してるのは「二次創作」だって言いますよね。「一次創作」っていうのは作曲者がしてることです。なのでもちろん、楽譜通りに吹けば、作曲者が意図したある程度の演奏効果が出るわけです。でも、そういうことを完璧にやってくれる機械に演奏させても、全然音楽としてはダメで、やっぱり奏者が二次創作をしないと、つまり奏者が音楽を作っていかないといけない。

 で、それってあんまり説明できないことなんじゃないのかなと思います。ていうか、全部完璧に説明できるなら文章に書けば済む話なのであって、それでは全然表現できない、音楽でしか表現できないからぼくたちは音楽やってるんじゃないんですかね。

 絵とかもそうじゃない?モネの、一面の雪に朝日が反射してる絵(名前忘れた、よかったら調べてみて)とか、霧が出てる絵(同じく)とか、写真に撮って印刷すればそれはそれでいいし、例えば(同じ日同じ時刻に行けないという議論は無しにして)その場所に行って見ればいいみたいなこと思う人がいるかもしれない、けど、彼の筆でしか表現できない空気感みたいなものがあるんではないかなと。(伝われ)

 

 たくさん演奏会やら展覧会やらなんやらに行って感じたことは、やっぱりどの作品、演奏も説明的なものが一つもないんですよね。やりたいこととか表現したいことが、言葉を媒介しないで、すっと入ってくる感じ。(伝わってるかな)


 例えば、音楽の流れに乗って自然にクレッシェンドしてたら、聴いてる人は、別に「クレッシェンドしてる」とは感じませんよね。無意識に向こうの音楽の流れに乗るだけです。(クレッシェンドっていうのはそれ一つ独立してみえるものではなくて、音楽の流れを作る要素の一つ。) でも、音楽の流れとか何もわかってなくて、ただ機械的に「ここはこの音量からこの音量までクレッシェンド」とかいう感じにやると、聴いてる人は「この音量からこの音量にクレッシェンドした」って感じる。それは、ぶつぶつ切った部分部分だけを完成品の部品にしようとして練習してるから。そうやってグロテスクに解体した部分だけ練習してたら、音楽の流れとか分からないだろうし、況してそれを統一できますか。

 


 もちろん、音程とか縦とかいうのはすごく大事で、ぼくもそれは合奏で第一にやるべきこと、というか、前提?だと思います。それができてないと、極論音楽じゃないし。


 今、とにかく表現とかの前に音程が悪い、それが気になるっていうのは、大きな課題だと思います。これは、個人練で解決してほしいというのが本音だけど、うちはサークルだし、そこまで強制できないから、自分が基礎合奏やら合奏やらの中でやっていかないとなーと思っています。それと、合奏をいいものにして、「音程を合わせたい」とか「音程良くなりたい」とか「縦揃えたい」とか「もっと個人練したい」とか思わせられるようにしたい。「しなきゃ」じゃなくて。音程合わせろって言ってやらせてるうちはいいものできないんじゃないかなーと。そのためにどうしたらいいかは模索中。まずは、いっぱいいい音楽を聴いてほしいんだけど、それも押し付ければいいってもんじゃないからなー。(ちょっと前はいろんな人にそういうのを聴け聴けって押し付けてきたので、それは反省。人それぞれの価値観もあるし。)

 それに、訪問の曲はポップスばっかりで、楽譜通り吹くに尽きるって感じの曲が多くて、あんまり二次創作とかいう段階はない(曲は嫌いじゃない)ので、今はどうしようもないけど、マードックとかやるときには、説明的な音楽にならないようにしないとなーと思ってます。というか、そういうところは早くクリアして、さらに上の段階にいきたい。それが大変なんだけど……。


 でも、やる自信はあります。というか、やらなくちゃいけない。私たちは、一人ひとり音楽家でなければならない。演奏会本番直前になってまで、メイン曲のテンポが定まってないとかは、切なすぎる。せっかくいい曲なんだし、しっかり曲を咀嚼して、表現できるようになりたいものです。(この前書いたマードックのストーリーは、その咀嚼に役立ててほしいという趣旨のものです)

 

 

 訪問の曲は、楽しい曲ばっかなので、それが伝わればいいな。生徒が100人いて1人でも、なんだか楽しい、音楽っていいな、って思ってくれる人がいれば、本望です。幸せであります。

 そして、この話を100人に1人でも理解して、共感してもらえる人がいれば、やはり幸せなのであります。