読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

曲紹介:時に道は美し

 例えば美術館で、もう少しこの絵を眺めていたい、と思うとき。例えば友人との集まりで、まだ遊んでいたい、もう少し話していたい、と思うとき。そんな瞬間が、みなさんにもきっとあることでしょう。確かに楽しいその瞬間から立ち去らなければならない状況というのは、時として、私たちにその楽しさよりも、寂しさや切なさをより強く印象づけます。例えばそれは、私たちが夏の終わりに抱くであろう感情にも似ているかもしれません。

 

 

 さて、この作品を演奏すると(と言っても、指揮者という立場で演奏するということは、その演奏を聴くということとも不可分ではありますが)、筆者にはそのような感情が無意識に立ち上がってくるのです。

 

 

 その理由の一つは、音楽の持つ普遍的な性質にも見出されるでしょう。音楽は、そのたゆみない流れによって、長くても数十分という短い猶予しか与えないまま、私たちを否応なく立ち去らせます。言い方を換えれば、ある意味では、音楽はその聴き方、受け取る方法が決められているのです。なぜなら、演奏時間が決められているから、さらに言えば、どの時間にどの音を聴くかということが決められているからです。「もう少しこれを聴いていたい」という欲求は満たされないのです。

 

 

 しかしながら、それはあくまで普遍的な性質なのであって、この作品を特徴付ける曲想にもその理由が見出されなくてはならないでしょう。作曲者である長生淳氏は、この曲について、「異性間の愛情というよりは、家族愛や人類愛・博愛といったものを思い描きつつ作曲した……のにもかかわらず、じわっとしたぬくもりのようなものに欠け(中略)ひりつくような曲想」になったということを述べています。

 

 

 氏の言及する通り、この曲に確かにある「ひりつくような曲想」というのは、焦燥感を感じさせるような、とも表現できるような曲想です。一度曲を始めてしまったら、もう戻れない、最後まで止まることなく進んでいかなければならない。それは、単に時間の流れと重ねてみることもできますが、それよりも人間の人生と重ねてみるべきものなのでしょうか。最初に述べたように、どんなに楽しいこともいつか終わりを迎えますし、そんな時には、楽しさよりも、寂しさや切なさをより強く感じるものです。それは、人生の中の様々な出来事にも当てはまるでしょうし、あるいは人生そのものにも……。

 

 

 

 

 さて、ここまでに書いたことは、決してこの曲の絶対的な唯一の解釈、というわけではありません。筆者がこの曲から受けた印象や、そこから自由に思考してみたことを、拙いながらも書いてみたまでです。

 

 

 この演奏を通して、皆さんにも何かしらの印象を与え、何がしか考えていただけたら、と思います。さらに少しでも筆者と共感していただけたならば、一人の表現者として、これ以上なく喜ばしいことだと思う限りです。