食べものと飲みものについて

・最近は暑いので、涼しげな透明のグラスを買いました。コーヒーもいいけど、この時期はアイスティーもいい。紅茶を透明なグラスに入れると、その赤い色がとてもきれい。

 

 

あるとき、その赤をもっとよく見ようと思って、電灯に透かしてみたら、たちまち色あせてしまった。すぐにテーブルの上にグラスを戻した。

 

 

 

このときの気持ちは忘れないだろうと思います。

 

 

・アイスティーにしてもアイスコーヒーにしても、水出しっていうのがあります。僕はこれに少し抵抗があります。

 

そもそも紅茶やコーヒーはお湯でいれるんですが、それを氷で冷やして飲もうとすると、どうしても薄まっちゃうんですよね。だから、最初から水でいれるやり方があって、これが水出しってことですね。

 

 

でも、なんというか、「薄まるからいい」というか、そういう感覚が僕の中にはあります。コーヒーを水出しでいれるのはまだいい。けど、紅茶を水で入れちゃうのは、何か致命的な操作だという気がついてまわります。実際、味はまったく異なると思う。

 

 

多分、アイスティーを電灯に透かすことと、反対なようでいて、同じことだと思う。なにかひとつにピントを合わせすぎないこと。

 

 

 

・「つくる」を「作る」と書くことへの抵抗。

 

例えば、もう僕は「カレーを作る」という書き方はせずに、「カレーをつくる」と書くと思います。

 

 

この「ひらがなで書きたい」という気持ちは、昔の人(近代以前)は持たなかっただろうし、非日本語話者も概念以上に理解することは難しいでしょう。僕と近い年代(と言ってもそれなりに広いと思う)の日本人のみが持つ感覚だと思います。

 

特に「『料理』を作る」という書き方への抵抗は、家を出て、食べるもの、飲むものを自分が作るようになってから、特に感じます。家でごはんを作ってもらってた高校生までには、「料理を作る」と書いてもあまり違和感を感じなかったと思う。

 

 

 

「作る」ということばが与える、「無機質な操作」という印象は、自分ががんばってつくった料理を、もしくはその努力を、ないものにするような気がしたから、たぶん僕はいま違和感を感じるんだと思う。

 

だから、僕が「作る」ではなくて「つくる」と書きたい理由を、ひらがなの持つあたたかみだけに帰着させるのは、少し乱暴で、的を外れていると思う。

 

 

漢字にしてしまうと限定されてしまう「なにか」を、ひらがなにすることで限定せずにおくということ。

 

漢字が言ってしまう「なにか」を、ひらがなにして言わないでおくこと。

 

 

「なにか」に限定しないこと。「なにか」を言わないこと。ピントを合わせないこと。