脱主体化をめぐって

書きためてるノートから。

 

このテーマは、あるとき(おそらく1年くらい前?)から頭の中をずっとぐるぐるしている。そして、それからずっと、様々な現象がこのテーマと関係しているように思えて仕方がない。共感してもらえるかどうかはわかりませんが、どうしてもそのことを共有したくて今日は書いています。

 

 

 

 

 

 

おそらく1年くらい前のある日、久々に開いたFacebookを眺めながら、僕は不思議な気持ちにとらわれていた。なぜなら、そこに投稿されている写真には、奇妙な傾向があったから。

 

例えば5年前に(5年前というのは、2013年頃を指すかもしれないし、僕が高校生の頃という意味でもあり得るわけだが)こんな傾向があっただろうか? ともかく、写真に写っている人々のうちのそれなりの数が、「変」だった。どこか中空を見つめていたり、あるいは驚いたような表情をこちらに向けていたり。はたまた、誰かに話しかけるかのように口を開けていたり。

 

とにかく、僕はそういう風に写真に写ろうとは思わないな、と思った。だって、例えばびっくりした顔の彼、何枚も同じような顔で写っていたけど、偶然にも毎回びっくりして写真に写ってるわけないでしょ?っていうことは、あの顔で数秒間固まっていたわけで、その姿を想像するに、失礼ながら滑稽だと思ってしまった。

だから変だなと思ったわけだけど、そのときは深く考えずにいた。

 

 

で、それからまた後に、ある人のあるツイートをふと思い出して、ハッとした。そのツイートっていうのは、それ自体Twitterの話だったんだけど、

「何かツイートするときに『ねえ』『まって』『いや』とかってことばから書き出すことがあるのってなんなんだろう?」

みたいな話だったと思う。

「まって、今年10連休あるのやばくない?」みたいにね。

  

で、その「ねえ」「まって」と、なぜかわざわざ驚いた表情で写真に写る人が重なった。

 

 

つまり:彼らは自分が写りたいから写真に写ったのではなく、誰かに呼びかけられたからはっと顔を向けたのであり、またツイートしたいからツイートしたのではなく、誰かに何かを知らせてあげなければならないから、誰かに反論しなければならなかったからツイートしたんだ。

そのように解釈されるような状況をわざわざ作り出して、「自分がその行為の主体であることから逃れさっている。」

 

そのような傾向に、僕はひとまず「脱主体化」というラベルをつけてみた。そしてだんだん、様々な現象に同じ傾向がある、ということがわかった。断片的だけど、その中からいくつか。

 

 

Twitterという場所もそう。

とにかく、(1対1の)返信を求められずに済む、という点。まさに「返信」ということで言っても、Twitter上でのreplyは、1対1の返信ではなく、1対多である。もしかしたら、多対多かもしれない。

またそれ以上に、「いいね」という記号には、自らの声も刻印もなく、心地よい脱主体化の中で相手とつながることができる。

 

 

・建築物をとりあえず斜めから撮ること、正面に被写体を置かないこと。撮られる側ではなく、撮る側も、主体を引き受けないことがある。レンズは目。修飾語句を多用するのと同じずるさ。

 

 

・美しすぎる映像。臨場感のありすぎる録音。それら全てが、心地よい脱主体化を阻む。適度な粗さはときとして私に傍観者であるという安心感を与える。

 

 

・なんでも外国語(英語)で言い換える。知りすぎている言語のことばで表せない、カテゴリー化されたことばとしての認識。

知りすぎている言語のことばは、一点を指差す。あまり知らない言語のことばは、点ではなく面、他の語との境界線によって描かれる面をつかむ。

(この断片は割に適当なことを書いているかもしれない。)

 

 

・「形式化」。何かの形式に当てはめることはやはり、「自分の外部」にあるものとしての形式に依拠すること。

 

 

 

いろいろ書いてきましたが、別に自らを脱主体化する身振りが悪いとか、そういうことは必ずしも言わない。「必ずしも」というか、全然そんなことは思わない。ときに主体であることから逃れ去ることだって、いいんだと思う。でも、僕にはまだ、断片的なことしかわからない。だから、中途半端だけど、今回の記事はここで終わり。

 

 

ただ確かなのは、そんな傾向が実際にあるということ、自分もそれを心地よく思うことがあるということ、そして、それでもなお主体である私を引き受けようという傾向もまた自分の中にあるということ。

 

ときに軽やかに私という主体から逃れつつも、その主体をきちんと引き受けるべきとき/引き受けたいときに引き受ける。ときに形式的なコミュニケーションの安逸さに身を浸しつつも、あるときには被写体に正面から向き合ってみたり。最近はこんなことに少しだけ自覚的に生きています。