「真の体験」信仰への懐疑、あるいは写真を撮ることの擁護

・「真の体験」の信仰 - 「自由気ままな旅行」?

 

ある友人が「自由気ままな旅行をしたい」と言い出したことがあった。行き先も決めず、ただあてどなく気の赴くままに旅行してみたい。どれくらい本気なのかはわからないけれど、そんなことを言っていた。

 

それに対して僕は、それはできないんじゃない?という、非常に面白くない返答をしてしまった。

 

僕はわりかし一人でいろいろ旅行することが多い方だと思うけれど、(定義にもよるが)「自由気ままに」旅行することは難しいと思ったし、今でもそう思っている。

 

 

まず、僕は鉄道が好きだし鉄道をよく使うんだけど、最低限大体の予定を決め、宿だけは取っていないと、野宿することになりかねない。僕にとってはおそらく、野宿するストレスは自由な旅で得られる心地よさを上回ると思う。

 

予定を直前になるまで決めないということは、案外金のかかることでもある。割引もないことが多いし、金券ショップも使えなかったりする。夜行バスも埋まってるかもしれないし、場合によってはタクシーを使うこともある。リアルな話、そういうのって地味にかかる。

 

それに、時間は有限だ。時間の制限は、(ひとまずある程度普通のやり方で社会に留まろうとする限りにおいては)厳然と存在している。それは、「○日までに戻ってこないといけない」という形のものであったり、「○年後には就職するんだよね」というものであったりする。自由というのはここでも制限を受ける。

 

もちろん、レンタカーを借りれば車中泊もできるし、より自由に旅行できると思う。それに、寝袋を持ち歩いていれば、より楽に野宿できるかもしれない。

でも、レンタカーは高くつく。元あったところにきちんと返却しないと乗り捨て料もかかるし、ガス代も高速代もかかるから。それに、寝袋があったって野宿はしんどい。

 

 

 

ともかくも、そんなに「真に自由気ままな旅行」っていうのは、おそらくある意味でかなり切羽詰まった精神状態なのだと思うし、少なくとも僕は普通の精神状態でしようと思わない。それは、ふらりと旅に出るという性質のものではなく、むしろ切迫した日常から解き放たれたくて、急き立てられて行くような旅行じゃないか?という風に思ったのだった。

もちろん、そんな気持ちになることがあるかもしれないけど、ないかもしれない。なくたった構わない。そういうものだと思う。その友人は本当に、何か切迫したものを抱えていたのかもしれないし、もしそうだとすれば僕は本当にばかな返答をしたものだと思うけれど。

 

 

 

・写真の話 - 「真の体験」はあるのか?

 

さてそこで、写真の話になるんだけど。

 

写真を撮らずに、自分の目にその光景を焼き付け、耳や肌で感じたい、そんな言説をよく目にする。その気持ちはとてもわかる。

けれど、それは僕にとっては一種の信仰でしかない。もちろん全然否定はしないけれど。

 

とにかく、言い切ってしまうと、そういった言説においては、「真の体験」「完全な体験」というものを過度に特権化・神秘化しているんじゃないかな、という視点を僕は持っている。

 

そんな「真の体験」みたいなものがもしある"とすれば"、それは息も止まるような光景を前にして、止むに止まれずそうなってしまう、そんなものなのであって、決して自分から追い求めるものではないような気もする。そうした状況をつくろうと努めること自体、一見誠実であるようにも思えるが、傲慢でもあり得ると思う。

僕も、すばらしく美しい景色に何度も出会ったことがあるし(もちろんみなさんにもあることでしょう)、そこで普通に写真も撮ったけれど、それは美しさや感動をそこなうものでは全くなかった。

 

繰り返すけれど、僕は改宗を迫っているわけではない。でも同時に、(無自覚に)僕らに改宗するように迫る言説もあって、それに対しての問題提起(というとやはり大げさだけど)をしているだけ。

 

 

 

ちょっと違うけれど、本を読むこと、またはどの本を読むかという選択にも、似たものがあると思う。

 

この世界には、僕たちが絶対に読み終わることができない量の本がある、ってよく言うけど、それでも僕らは何を読むかを選択しなきゃいけない。

 

確かに、どんな本を読むのも自由。とはいえ、どんな本に興味があるのかということは、どうしようもなく決まっていることもある。それは、受けてきた教育や周囲の環境、はたまた図書館のコレクションそのものにも影響されるだろう、というのもよく言われる通り。

さて仮に、それらの"障壁"が取り払われ、「自由に本を選んでください」と言われたらどうなってしまうのだろうか。有限の時間の中で、どの本を読み、または読まないかを選択することは、限りなく難しくなってしまうのではないか?

どうやって本を選ぶのか、それはまさにその"障壁"によって決まるのだから。

 

 

読書の方法についても、最初の文字から最後の文字まで、最高の集中力でもって本を読み通すことができたらいいと思う人がいるかもしれない。が、おそらくそんなことをできる人はいないだろうし、しようと思う人もいないだろう。いるとすれば、その人はやはり、そうあるべきであるような「真の読書」の信奉者ということになる。

 

難しい本だったら少なくとも部分的には読み直すことになるだろうし、そもそも、全ての部分を同じ集中力で読むことが果たして誠実な態度なのかという問題もある(読書の仕方は、自分自身試行錯誤している部分もあるから、あんまりえらそうなことは言えないわけだけど)。

 

 

 

・なぜ写真を撮るのか

 

そんなわけで、「自由な旅」というのをやってみようとすると案外難しく、美しい景色を見つつ「真の体験」を求めても、(少なくとも僕は)どうすればいいのかわからず、じたばたと窒息してしまう。

 

全くの自由とか、全てを感じるとか、僕はそんなことができる全能者ではない。

それらは想像するには足るものだけれど、この世界に「完全」は概念としてしか存在していない。

 

 

でも不完全っていうのは悪いことではなくて、僕たちは僕たちの体験を終わりなく、無限に豊かにしていくことができるのだと思う(これは1/3くらい教授の受け売りだけど)。それが「完成」されるということは永遠にやってこない。「完全」は存在しないのだから。

 

その方法は、例えば自分の体験を日記に書くことだったり、写真に撮ることだったり、その写真や日記を5年後10年後に眺めることだったり、一緒にいた友達と思い出話をすることだったりするのだと思う。僕にはできないけど、絵に描いたり、音楽にしちゃう人もいるかもしれない。

 

だからこそ、真の体験なんかないからこそ、僕は自分の体験を、もしくは自分自身をより豊かにするために、写真を撮る。写真じゃなくてもいいんだけど、僕は写真を撮る。そうして、自分に書き込み-刻印をしていく。

 

自分にとって写真を撮るということの意味をもっとも大きな意味で問いかけたときには、このようなことになると思う、ということで、写真を撮ることへの擁護にもなっているだろうか。