アウシュビッツ訪問記

アウシュビッツを訪れたのは、4月22日月曜日のことだった。

 

いつものようにホステルに荷物を置き、パスポート、食料、カメラその他一式をトートバッグに詰め込んで、朝一番のバスに乗り込んだ。当初の予定を変更することが多かった今回の旅行の中でも、アウシュビッツへの訪問は最優先事項だった。

 

 

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さて、最初に書きたいのは、カメラの話。

 

当初、収容所内での写真撮影は許可されていないかもしれないと思っていたのだが、一部の遺品を除いて写真撮影は許可されていた。 

 

もちろん、そこで写真を撮ることに対して、全く葛藤がなかったと言えば嘘になる。葛藤というほどではないにしろ、少しはそこで写真を撮ることの意味について考えることになった。

だが、(前回の記事でも少し書いたけれど、)僕はいつもこうやって、カメラを使って自分に刻印をして生きてきた。アウシュビッツで写真を撮るということに対する決断は、全く簡単にとはいえなくとも、十分にスムーズになされたことだった。

 

しかし。バスを降り、チケットを手に入れ、セキュリティゲートをくぐり、収容所の建物群に少し歩み寄ったところでカメラを取り出し、レンズを向け、シャッターを切ったその時。

「パシュン」という呆気ない音とともに、カメラの電池が切れたのだった。

 

 

 

そんな不思議なことがあるのか?という気持ちだった。カメラの替えの電池は持ってきておらず、早くも写真を撮ることは不可能になったのだが、それに対しての無念や、電池を持ってきていない自分への憤りなどは、全くなかった。ただただ、不思議だった。

 

 

僕は割とそういうタチなので、これは天啓だと思うことにした。「ことにした」というか、そう思った。写真を撮ることを咎められたとは全く思わないが、今日はそういう巡り合わせなのだ、と。

 

 

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少し時系列は前後するが、電池切れを起こした際にどこかに不具合が生じたらしいということは、ワルシャワで新しい電池を買って装填したときにわかった。このカメラは二度と正常にシャッターを切ることができなくなってしまっていたのだった。

 

このカメラの後日譚は最後にするとして、その後のアウシュビッツでの出来事を記していきたい。 

 

もちろん、書きたいことは様々にあるのだが、その中でも書かなければならないと思うのは、この訪問を通して感じた非常にネガティブな部分である。できるだけ感情を排して、そのことについて共有したい。

 

 

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それは、収容所の敷地に入ってすぐのことだった。しばらく歩いたところで、前方に自撮り棒をつけたスマホを持ったアジア人が、キョロキョロしているのが見えた。少し嫌な予感がしたのだが、果たして彼は僕に話しかけてきた。"Can you take a picture ?" みたいなことを言っていたと思う。

正直、この場所でセルフィーを撮りたいという感情は、全く理解できなかった。そんなことはすべきでない、と怒鳴りたい気持ちをこらえて、僕は完全に彼を無視した。

 

 

もしかすると、彼はネオナチだったのだろうか?

 

はっきり言って、それならまだいい。彼は、そのことの重大さを引き受ける引き受けないの前に、そうした前提が(ひとまずは)通用しない主義の中に身を置いていたということになるのだから。

 

 

問題は、彼がネオナチなどではなくいたって平凡なアジア人であった場合である。というか、おそらくそうなのだ。彼は、自分がどんな場所にいるのか、実際には理解していなかったのだ。

 

しかし、歴史を理解しないアジア人がセルフィーをすることと同じくらい嫌悪すべき光景を、その後で目の当たりにすることになる。

 

  

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収容所の建物のうちいくつかは、中に入ることができる。そのうちの多くは内部が改修されて、各棟がある程度独立した展示をする形になっている。これらの展示棟でも、僕は非常に残念な体験をせざるを得なかった。

 

ある棟には、夥しい量の女性の髪が、横10mくらいの幅で積み上げられている一室があった。そして、かなりの人数である私たち見学者は列をなして、その髪をガラス越しに見ながら、流れに沿って進んでいく。僕はかなりの違和感を覚えながら見学をしていた。

 

 

流れに沿って進んでいく?ガラス越しに眺める?なぜ?

だって、この髪の毛を見ることは、例えばスーパーに陳列された様々な種類のお菓子を眺めることや、路面店に展示されているブランドものの服や靴を眺めることとは、全く異なるはずだ。

 

それを、まるでレジに並ぶように、もしくは混雑したエスカレーターの前で並ぶように、少し先を急ぎながら列をなして進んでいくというのは、どのような状況なのだろうか?

 

その彼女らの髪の毛、犠牲者の生の痕跡を、なぜ僕らは今、歩きながら、視線を滑らせながら見ているのだろう?

 

 

狭い通路で、長い列をなして歩みを進める前後の見学者の中にあっては、立ち止まって彼女らの生——"それ"以前の生であったり、"そこ"での生であったり、あるいは"それ"がなかったらあり得た生であったりするだろう——に想いを馳せることもできない。

 

 

例えば歩きながら、目を滑らせながら、両親の遺品や友人の墓標を見るということがあるだろうか?

 

 

これは両親の遺品でも友人の墓標でもないって?確かにそうかもしれない。見ず知らずの人の墓や遺品を訪ねてわざわざ旅行をする人なんていないんだからね。でもあなたたちは、それくらい大事なものを見るためにわざわざポーランドの片田舎までやって来たのではないですか?

 

 

これは例えば「○万人分の髪の毛」っていうようなものじゃないんだ。ある人の髪の毛、かけがえのないある人の髪の毛が、数万人分も十数万人分もあるんだ。それはお金みたいに交換可能な価値を持つものではない。

 

 

 

実際のところ、施設のキャパと入場者数の兼ね合いで難しい面もあるのだろう。ツアーで来ている見学者は、時間の制約もあるらしい。だから、僕は決してこの施設に対して不満を覚えていたわけではないのだが、この状況に漠然とした違和感を覚えていた。そこまではまだ良いのだが、それでもなお僕は、ネガティブな気持ちで見学を進めることを強いられた。というのも、ここでも見学者のマナーは見るに堪えないものであったからだ。

 

冗談を言い合いながら歩いてゆく若者たち。ツアーは団体行動だから仕方なくついてきてるんですと言わんばかりに携帯をいじる者。駅や空港で彼らがそうするように、隙さえあれば列に割り込もうというような者も、1人や2人ではなかった。

 

もちろん、厳粛な面持ちで見学をしている人も相当数おり(彼らの多くは一定の年齢以上であったと思う)、そうした人々がちらりと目に入るだけで救われたような気がしたものだった。

それに、鑑賞の方法というのは人それぞれであるということも理解している。しかし、彼らには何か、きわめて重大な何かが欠けていた。それは例えば、こうした場所を訪れるにあたっての厳粛なマインドとか、そういった種類のものではなく、もっと根本的なもの。

 

 

もう一度言うが、こういった見学者たちがみなネオナチだったらまだいいのだ。この場所に来てもなおナチス万歳と言ってのけるような人間や、そもそもここに足を運ばないというような人間の方が、まだよっぽどいいのかもしれないとさえ思う。

より深刻なのは、こうした人間が旅行を終えて、アウシュビッツを見学してきたという話をしたり、「この歴史を繰り返してはならない」とかいった言葉を口走ることだ。そう口走ってしまうことで、彼らにとってこの歴史を乗り越えられたものにしてしまうことだ。

 

彼らにとっては、ここに訪れることは単なる思い出作り、もしくは世間体のため——ポーランドに行ったのだから、アウシュビッツにも当然足を運んだのだ、という額面を得るため——でしかなかったのかもしれない。そういった動機でここに訪れるのは、教科書的な知識を得るのとさほど変わらないのかもしれないし、もしかするとそれより悪いかもしれないと僕は思う。安易かつ不誠実なやり方で、この場所を、そしてそこで起こった出来事を乗り越えてしまうということは、歴史の授業でしかアウシュビッツを学ばないことよりも悪いかもしれない。

 

 

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彼らがここに足を運んだ根本的な要因は間違いなく、彼らが幼少期から紋切り型として徹底的に叩き込まれてきた「ナチス=悪」という戦後ヨーロッパ的図式である。

ホロコーストを繰り返してはならない。それは100%正しいと思う。しかし、「ナチス=悪」を議論の出発点に据えるような短絡的思想・教育は、果たして正義なのだろうか?

 

例えば、なぜヨーロッパではホロコースト否認が罰せられるにもかかわらず、イスラム教を風刺する漫画は「言論の自由」の象徴としてのお墨付きを得られるのか?という問題が真っ先に思い浮かぶ。病的にナチスを否定(というより嫌悪)するヨーロピアンたちは、何かの理にしたがってそうしているというより、ほとんど感情によってそうしているのだ、と言ってしまっていいだろう。

 

(おそらくこれを読んでくれている人たちはこの文脈を共有していないと思うので補足しておくと、僕の印象では、(少なくとも大学生・大学教員である)ヨーロピアンたちが「ナチス」「ホロコースト」などといった言葉を聞いたりそれに関して議論したりする際の様子はほとんど病的であり、それに対して異を唱えることは許されないという雰囲気である。「ナチス=悪」の図式は何かの議論の帰結というよりは、議論の前提、公理のようなものとして与えられている。あくまで個人的な印象であることを念押しするが、それは例えば平均的な日本人が日本でナチスについて話す様子とは全く異なっている。)

 

もちろんホロコースト否認はすべきでない。しかし、それならばイスラム教の侮辱もすべきでないし、また「言論の自由」は万能ではないということになる。が、彼らはそれを認めたがらない。

 

アウシュビッツは、絶対に繰り返してはいけない歴史だった。ニュルンベルク裁判に始まる、ヨーロッパにおけるナチスに対する病的なまでの反動・嫌悪も、理解できるものではあるし、それも確かに必要なものだったのかもしれない。しかし、結局それはモグラ叩きになってはいないか?70年以上が経過した今、他のところにモグラが出ることはあまりにも明らかなのに、それを放置していいのだろうか?

 

 

その根源たる戦後ヨーロッパ的教育プログラムはどうであろうか。学校で徹底的に反ナチ・反ホロコーストの紋切り型を教え込む。そして、アウシュビッツを見学させる。ドイツの高校生が修学旅行でアウシュビッツを訪れることも少なくないのだという。もちろん、他のヨーロッパ諸国からアウシュビッツを訪れる生徒もいる。この場所にとりあえず連れてくる、列に並ばせる。そして、この場所・この歴史を乗り越えさせ"てしまう"。

 

 

(補足しておくが、僕は単に戦後ヨーロッパ的(連合国的)第二次世界大戦史観を全面的に否定したいわけではなく、また例えば『日本国紀』的な視点に賛成したり、いわゆる右翼的な意味合いでの「自虐史観批判」を展開したりするつもりも毛頭ない。しかし、戦後ヨーロッパ的史観が歪んでいる、ということは事実である。歪んでいない歴史観など存在するのかどうかという問いはここでは措くとして、良くも悪くも歪みがあるという事実は認識しておかなければならないと思う。)

 

 

 

本当にこれで大丈夫なのか?という気持ちが、見学の途中にもかかわらず湧き上がってきていた。いや、おそらく大丈夫ではない。

昨今の民主主義の機能不全とポピュリストの台頭にも見え隠れしているように、極右政党の主張、有権者の投票行動は、1930年前後のドイツにおけるそれと非常に似通っているはずだ。そして、その有権者たちというのは、ヨーロッパお墨付きの反ナチ教育プログラムを受けたはずのヨーロピアンたちなのだ。

紋切り型としての「反ナチ」は「反ナチ」でしかなく、それ以上の広がりを持つことに限界があるということの証左ではないか。

 

ヨーロッパにおけるアジア人や黒人に対する暗黙の差別もそうだ。

例えばフランスで、ゴミ処理業者や清掃人はほとんどの例外なく黒人の仕事になっているということ。彼らの子どもが白人優勢のエスタブリッシュ階級に入っていくことは、日本におけるそれとは段違いに困難であるということ。

そして無自覚な大勢の白人たち。人種・出自による社会階層の隔絶とその再生産は、無自覚に、しかし粛々と行われている。そして、それを行っているのはやはり、ユダヤ人を迫害したナチを徹底的に否定する教育を受けたはずの彼らなのだ。

 

一昨日もまた、カリフォルニアでシナゴーグが襲撃された。まさにその反ユダヤ主義というのは、現代にも生きているのだ。その事実と、負の歴史の反省とが、どれだけの人にとって有機的に結びついているのだろうか?

 

 

 

 

不快に思う人がいたらすみません。でも、僕はあの場で率直にふと、長い列をなして人々をのみこんでいく収容所の建物は現代の強制収容所のようだ、と思った。

ナチスの犯した犯罪と人類の負の歴史を学び、それを繰り返さないためには、とりあえずここに足を運べばよいのだ——そう安易に信じ込んでアウシュビッツに訪れ、列をなしてまるで美術館にでも来たかのような気楽さで展示を眺める見学者たちの様は、「これからシャワーを浴びるのだ」と信じ込まされ、ガス室へ送り込まれた人々と重なる。彼らはそうやって何の問いも自覚もなく、痴呆症、不感症患者になっていく。

 

 

 

負の歴史を繰り返さない。そのための教育は、残念ながらまだ成功には至っていないのではないだろうか、ということを思う。もしかしたら、人間が歴史を繰り返さないということは、不可能なのだろうか?

 

 

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アウシュビッツでの見学を終えると、シャトルバスに乗ってビルケナウ収容所を訪れた。しかし、そこにも陰惨な光景が広がっていた。ビルケナウの建物をバックに家族写真を撮る人々が目に入った瞬間、暗澹たる気持ちが抑えられなくなった。ここで家族写真を撮る人々は(しかも笑顔で!)、おそらく本当にネオナチであるに違いない。いや、本当にそうであってくれ。頼むから。

 

 

僕は、ビルケナウでの見学予定を大幅に短くして、シャトルバスでアウシュビッツにとんぼ返りした。そして、クラクフ行きのバスでアウシュビッツを後にした。これが、僕のアウシュビッツ訪問だった。

 

 

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それから4日後。パリに戻ってきて、僕は真っ先にフィルムを現像に出した。

僕がいつも利用している現像屋は、フィルムを出したら1時間後くらいにデータ化したファイルのリンクをメールで送ってくれる。ネガは後日受け取る。

 

ワルシャワで電池を買って、それを装填して試し撮りしたときに、どうやらカメラが故障しているらしいということがわかった、というのは最初に書いた通り。そのあとどうしたかというと、少しパニックになってしまった僕は、感光覚悟で裏ブタを開けて、何かが詰まったりしていないか確かめたのだった。

おそらく複数枚のフィルムが感光してしまっているだろうと思ったし、そもそもアウシュビッツの写真は、きちんとシャッターが切れていたのかどうかもわからない。そんな状況だった。

 

(補足。未現像のフィルムを光に当てるというのは絶対にやってはいけないことで、これをやってしまうと基本的に感光してしまう。光をあてる時間と明るさによるのだが、僕は白昼のもとで、不具合を探すために長時間裏蓋を開けていたので、露出していた部分のフィルムを現像すれば間違いなく真っ白である。)

 

 

で、その送られてきたリンクを開き、ファイルを落として開く。そのフィルムのうち最後にきちんと撮れていた写真がこれだった。僕は文字通り、言葉を失ってしまった。

 

 

 

 

 

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おそらく裏蓋を開けた際に、左端を除いて感光していなかったのだ。フィルムが巻き取られていた部分が感光を免れたのだろう。裏蓋を開けるタイミングが少し違えば、この写真は全部感光してしまっていてもおかしくなかった。

 

 

勝手な思い込みかもしれないが(そうに違いない)、僕には、この収容所がなにかに抗って自分の姿をフィルムにとどめたのだ、そうとしか思えなかった。

 

 

こうして熱に浮かされたように一気にアウシュビッツのことを書いているのは、たぶんこの写真のせいだと思う。とにかくこの写真は、確かに僕の目に像を結んだ。

 

とんでもないものを撮ってしまった。この写真を、僕は一生忘れることはないだろう。