社会的コード逸脱のレッスン
この社会には、様々なコードが存在している。例えばそれらは、法律や社則といった形で明文化されていたり、マナーや礼儀や暗黙の了解という形で存在していたりする。
もちろんそうしたコードって、いわゆる社会を回していくにはどうしようもなく必要なんだけど、それがあまりにも自分の頭や身体を規制すると、ちょっと息苦しいと思う。息苦しいだけではなくて、コードを無視して振る舞う人間のせいで実害を被ることもある。
僕の周りには、社会的なコードに縛られ、それによってつらい思いをしている(とまではいかなくとも息苦しさを感じている)人が多いのではないかな、と想像している。それは僕の周りの人たちに限ったことではないのだろうが、その思慮深さゆえ、配慮の欠けた人々のためにより一層コードを意識する側に回っている人たちが、僕の周りにはとりわけいるのではないだろうか、と想像している。
だから、そんな人たちは、そのコードから逸脱することを覚えたら、少し楽になるような瞬間があるのではないか?という話。コードからの逸脱というのは、必ずしも他人に迷惑をかける"規則破り"ではなく、自分自身を解放することでもありえる。
これがどれくらい目新しい話かはわからないけど、それでも書いてみようと思う。
僕もえらそうなことは言えないのだが、僕は自分のことをかなり逸脱してしまった人間だと思っている。
おそらく僕は、いろんな面で典型的なマジョリティだと思う。でも、どこか(おそらくそれは複数)で道を踏み外してしまい、アウトサイダーになってしまったと思う。かっこつけてるわけじゃなくて、"普通の"レールに乗れてりゃよかったのにな、と思うこともある。
高校の頃も学校に行かなくなった時期があったし(ただしこれは、心の病みたいな深刻なやつではないんだけど)、多分その流れで大学でも授業に出なくなっちゃったし、そうして気づいたら、大学という場における最も致命的な踏み外しをやってしまった。
でもそのおかげで、というかそれがきっかけで、他の場面でも道を"踏み外せる"ようになったと思う。
道を踏み外すのを推奨するわけではないけれど、道を外れた方が自由になれることもある。それに、「踏み外し方」を知らないということが時として深刻な結果を招きうるということは、みんな知っていると思う。
もう道を踏み外しちゃってる人たちは、読んでも退屈しちゃうかもしれない。
・例えば、美術館での譲り合いで
別にね、授業全部欠席して留年しましょうとか、法律を破ってみましょうとか言いたいわけじゃないんですよ。もっと穏やかで、人に迷惑をかけず、自分が激しく不利益を被ることもない。そんな形で、まずはコードから脱け出してみたい。
ではそもそも、どのようなコードから逸脱するのか?という例として、ひとつ。
あまり上手くない例だなと思うんだけど、例えば、あなたは美術館にいる。そんなに混雑しているわけではなく、特に順路のある展示ではない。だから、皆めいめい好きな順番で作品を見ている。
そうしてある絵を見ていると、横に人が来た。その人も同じ絵を見たいらしい。そんなタイミング。
一般的に、周りに他に誰もいなくて、横に十分なスペースがあれば、ちょっと横にずれてあげたりするのが、ここでの「コード」といえると思う。
そんな状況で、あえてずれてあげない。いくら視界に入っていようと、私は集中しているから全く気づきませんよとばかりに無視する。僕はたまにこんな風にする。
別に僕は意地悪でやっているのではない。それに、人に少し場所を譲ったくらいで鑑賞の体験がそこなわれるわけではない。
そうではなく、(僕以外にもそんな人はいると思うのだが、)人が横にくると無意識に譲ってしまう自分が嫌になるからやっている。
フランスに来てから、自分から道や場所を譲るというような精神性をあまり持たない人たちに囲まれ、自分ばかり場所を譲っていると、彼らに対してというよりも、無意識にコードに従っていわば不当な扱いをされている自分の身体に対して不快感を覚える。
だからこそ、自らの不自由な身体への抵抗として、そのコードから脱していたいと思うのだ。
それにもちろん、そのコードに従うかどうか(=そのタイミングで場所を少し譲ってあげるかどうか)を自分で決められた方が、落ち着いて鑑賞できることも間違いないと思う。
例えばこんな感じ。
・例えば、歩いていて肩と肩がぶつかりそうなとき
もっとviolentな状況もあるかもしれない。必ずしも物理的な暴力が伴うという意味ではない。コードに従ってしまう自らの身体ではなく、相手の無法に抵抗するという状況。コードを守らない相手によって、コードを守っているはずの自分が、(物理的な意味に限らず)暴力的な仕打ちを受ける、そんな状況。
というか、僕の周りの思慮ある人々が苦しみがちなのは、むしろこういう状況なのだと思う。
だからこそ、より軽い"レッスン"を通して、こんな状況でも(コードを逸脱しつつ)自分を守る術を身につけることができるのではないか?ということ。ちょっとえらそうな言い方になっちゃったけど。
例えば、道を歩いているとき。特に、ラッシュ時の駅の通路とかで。たまにいるじゃないですか。あ、こいつぶつかってくる気満々やわ、っていう人。性差別するわけじゃないけど、客観的に見てほぼ100%男性。
(読み飛ばしてもらってかまいませんが: 僕は個人的には、こんな場面で自分が相手を避けなければならないというのは、非常に不当だと思う。自分が相手により大きな危害を与えうる場合は抵抗なく避けるけれど、大抵こんなやつらって僕より背が高くて体格のいい男性なわけで。
もちろん避けないということは法にすら触れてしまいうるわけだけど、その一方で、法は有用でありつつもそれだけでは万能ではない。そして、こんな場面というのは、主体同士の権利の衝突を端的に写し出していると思う。
……なのですが、ここではあまり関係ない上にちょっとアブノーマルすぎると思うので、続き(?)はここでは割愛。)
で、こういうときは、どちらかが避けるっていうのが「コード」ですね。だから、避けないでやってみるのはどうでしょう。っていって、どーんとぶつかっちゃうわけにもいかないので、相手に避けてもらいましょう。
じゃあどうするのか?
例えば相手の顔をまじまじと見てやりましょう。できれば、にっこりして。後ろに誰もいなくて邪魔になりそうじゃなければ、立ち止まってもよい。
僕の経験上、立ち止まって笑顔で目をまじまじと見た場合、どんなに狭い道でも100%相手が避けてくれます。意識高い系の日本人サラリーマンも、かっこいいフランス人学生も、ガタイがいい黒人のお兄さんも、みんな避けてくれる。
別に、頭おかしい人のマネをしろというわけではない(それもそれでいいけどね!)。もちろん、突然叫び出したり、カバンの中身をぶちまけ出したりしても、人は避けてくれるかも。でも、それは本質ではないし、目を見たり立ち止まったりすることで彼らが自分の方から身を退くのは、そんな理由からではないと思う。
そうではなく、「そのタイミングでぶつかるっていうのはあまりにも道理がないぞ」という風に考えさせるということなんですね。目が合っているやつにぶつかったり、立ち止まってるやつにぶつかったりするのは、いわばバカであるということ。
あえて分析的に言うならば、コードを逸脱する振る舞いは、相手にコードを意識させることにもつながるということ。
自分がコードを逸脱することで、相手にコードを守らせる。ときにはこうやって自分の身を守ることもある。
蛇足かもしれないけど、ひとつだけアドバイスを。必ず一対一で。主体の逃げ場を作ってはこの"遊戯"は成立しないから。
・まずは意味のない逸脱を
とはいっても、そんなことやるのは簡単じゃないし、なかなかやってみたいとは思わないかもしれない。
だからね、まずは意味のない逸脱をしてみましょう。
例えばコンビニのレジで、これ以上ないくらいニコニコして支払いをしてみたり。できればあんまり行きつけじゃないコンビニがいいかもしれないけど。
例えば道で、知らない人に話しかけてみたり。興味が出たから話しかけるのではなくて、全く理由もなく話しかけてみる。やっぱり、あまり普段行かない場所がいいとは思うけど。
もちろん、完全に支離滅裂なことをするのも楽しいんだけど。それよりも、別のコードに入っていくということの方が楽しいと思う。
言ってしまえば、何か別の主体になりきるということ。
僕はそうやって「別の誰か」になることに抵抗がない。それは例えば、「元気な居酒屋の店員」であったりする。ときには「陽気なアフリカンと一緒に話す日本人学生」であったりもするし、また「陽気なアフリカンに話しかけられて面倒くさそうにする日本人学生」であることもある。さらに、例えば「道でぶつかりそうになったら目を見てくる人」であったりもする。
さっき、道で人とぶつかりそうな状況について書いた部分とも少し関連するかもしれませんが、いわば道化をやるということですよね。
その道化を見てびっくりする人を見るのは楽しい。なぜならその"見物人"たちは、実は自らも僕の眼差しの中で道化となりうるということに気づいていないから。我が物顔で道を歩いていた人間が、突然コードを意識して"理性的な"振る舞いをすることのおかしさなど、考えもしないだろうから。
その立場の逆転の可能性に気づかない見物人=道化たち。そんな風に見えてきたら、自由にコードから脱け出せるようになるのもすぐだと思う。
知っている人の前では滅多にそんなことはしませんよ。それにもちろん、サークルみたいにある程度閉じた共同体で、必要なコードから意味もなく逸脱しているのを見るのは大嫌いだ。
でもその一方で、見ず知らずの人との摩擦の中で自分をすり減らすのはつらい。そこで、自分を規制するコードから脱け出してみましょう、ということ。
うーん、でも僕は、僕の友だちがそうやって道を踏み外しているのは見たくないし、最初に書いたようにそれは推奨するわけでもない。踏み外さずに道を歩いていけるということも大切だ。
じゃあなんで書いてるのかって話なんだけど、ひとまずは"踏み外し方"を知っているということが有用だからということにしておきましょう。
それに、そうやって自由になる過程というのは、楽しい。その自由が虚構なのだとしても、そしてコードに身を浸すことが楽でありまた必要なのだとしても、時にはその息苦しさから自らを解放することは楽しい。
何言ってるかわかんないっていうんだったら、まずはやってみましょう。
例えば、普段あまり通らない道で、通行人に話しかけてみる。
できれば昼間にね、夜にやると警察呼ばれちゃうかもしれないから。
で、おもむろに訊いてみる。「わんちゃんの名前なんですか?」って。もちろん、犬なんか連れてない人に。