写真への試論
・一度見たものをあらためて撮ること
例えば、丘の上にある教会を訪ねる、そんな小旅行とするとして。
なんということはない、半時間もあれば登れてしまうような丘。途中にはきれいな景色もたくさんあるだろう。
写真の話をしたいので、カメラを持っているということは前提にさせてほしい。さて、僕はどんな写真を撮るだろうか。
たくさん撮り過ぎたら後から整理するのが大変だから、行きがけにいいと思った景色を帰りがけに撮ろう。そんなことを思いながら坂を登っていく。丘の上にたどり着き、教会を見学し、あたりを散策する。そして、しばしの休息を挟み、来た道を下っていく。
その道すがら、写真を撮ろうと決めていたスポットにやってきて、ファインダーを覗き込んだとき。僕は、最初この景色を見たときほどの興奮を覚えていない自分に気づくことになるだろう。それどころか、その景色が最初見たものとは異なっているような気さえするかもしれない。そうして結局、何も撮れなくなってしまう自分の姿が見出されるに違いない。
というのも、例えば帰りがけにその教会の写真を撮ろうとしても、どうしても不完全なものに思えてしまうからだ。その丘の上に咲いたバラの赤や、教会の横に規則正しく並んでいる墓に飾られた故人の写真や、教会の内部の黴の匂いを伴った静けさを知った後には、どうやって撮ろうとしても、違和感を感じてしまう。どうやって撮ろうとしても、何かが欠けているような、何かすくい上げられていないことがあるような気がしてしまう。
躊躇してしまう。一度見たものを改めて撮ることへの否応なき躊躇。"全て"を撮ることの不可能性が私たちに迷いをもたらす。そうして、結局何も撮れなくなってしまう自分が見出されることになるだろう。
全てを撮ることはできない。何らかの形で有限化しなければ、写真は撮れない。写真を撮るという行為は、有限化だ。
* * *
・内的規範
突然個人的な体験から出発してしまったが、許してほしい。
「一度通った道の景色を帰りがけに撮る」こと。その行為につきまとう躊躇、違和感。そこから出発して、写真を撮ることについて考えてみる。
ではもし、その違和感に取り合わず、躊躇せずに写真を撮るとして、それはどんな写真となるのだろうか。言い換えれば、全て(ないしより大きな部分集合)を見てしまった状態で、それをどのように有限化するのか。
そんな状況で写真を撮るものはみな、無意識に内的な規範に頼ることになるだろう。
なんらかの内的な規範に強く規定された写真。
集合写真という例は非常にわかりやすい。集合写真においては、全員の顔が(ときに身振りをともなって)枠内に写っていることが要求されている。
だが、同じことは他の写真にも言える。例えば風景写真においては一般に、「均整のとれた構図のもとで、美しいとされている風景が写っている」ことが規範となっているだろう。
そのような規範に規定された写真を撮ること。レンズが捉えているものをフィルム(ないしセンサー)に投影するのではなく、私たちが内に抱いているイメージをファインダーに投影すること。
それは、単に写真を撮る/写真が撮られるという事態からもはや離れて、自分の作りたい写真を作る作業に近づいていくだろう。
別の言葉で表現するなら、何を撮っているのかよくわかる写真。私たちの目を決して戸惑わせることのない、整理された写真。
・非意味的な有限化
もちろん、規範に規定された写真・整理された写真も、私(たち)にとって快いものでありうる。
しかし、だからと言って冒頭に書いたような躊躇、迷いが消えるわけではない。「それでもいいから撮れ」というのは、今の僕にとっては、どこまでいっても自らに対する欺瞞でしかない。
一度見たものを改めて撮ること。一度見たものの中から、自らの内的規範に照らし合わせて意味を探し、それを再構成してイメージを作る。私たちは、そんな写真の作り方にあまりに慣れてしまっている。
規範によって規定される有限化に陥らないために。そのために、非意味的な有限化が必要なのではないだろうか。
単に"無"意味な、ということではなく、なんらかの意味によらない有限化を志向する。なぜなら、意味を求めようとすると、私たちは私たちのうちにそれを探さざるを得なくなってしまうから。
そしてそのために、何かを見て印象に貫かれたその瞬間にシャッターを切る、という実践が必要になるのではないだろうか。
その印象が、自分の中で意味を結んでしまう前に、写真を撮る。そして、それを積み重ねていく。
見るように撮る。見たものを撮るのではなく。
自分の目をカメラに近づけていくのではなく、カメラを目に近づけていく。
そもそも、私たちの目の動きはしばしば非意味的である。だから、ときには見たくないものも見てしまうのだが、同時にだからこそ、見る予定ではなかったものも見ることができる。
・規範からの漂流
僕が追い求めているのは、決して「規範からの"逃走"」ではない。
規範からの逃走としての写真とは、例えば誰かが意図的に写っていない集合写真であったり、それとわかるほどに構図がめちゃくちゃな風景写真であったりするかもしれない。また例えば、壊れたカメラで撮った写真、完全に感光して真っ白な写真なんかもありえるかもしれない。もちろん、写真はそういった可能性へも開かれていてしかるべきだ。
しかし、僕が志向しているのは「規範からの"漂流"」。
規範から一直線に(真っ直ぐに/同じ方向に)逃げ出していくのではなく、方向を定めぬまま、規範からゆっくりと自分を押し流していく写真。
そして、規範的なものから離れていくことで、その写真を撮った本人だけではなく、その写真を見るものも規範的なものから離れていけるということ。見るものをこちらへと誘いながら、同時に彼方へと押し流すような。
集合写真を見るときには、写っている人を探すのが普通(であり規範)だし、水平線に沈む夕日の写真を見たら、その朱色に目が奪われるのが普通なのだ(繰り返しておくが、僕はそんな写真の在り方を否定しない)。
そうではなく、見るものの目を戸惑わせる写真。
印象派の画家たちが、私たちの目に(目が)どんな像を結ぶかを賭けたように(言い換えれば私たちの目にいくつもの可能な像を結ばせうるというその複数性/決定不能性を)、その写真が眼にどのように見出されるのか、という賭け。
* * *
・事物の神聖化
ここで終わっておけば収まりはいいのだが、もうひとつの疑問が立ち上がってくる:なぜ写真に収めなくてはならないのか?なぜ、その印象を目に焼き付け、その瞬間を心に刻むだけでは不十分なのか?
私たちは、事物への尊敬を忘れている。
私たちがその景色を再び想起するとき、その想起さえも内的な規範に侵されないという保証がどこにあるだろうか。
僕は「事物を信じている」。ファインダーの向こうに見えた事物たちも、その画を焼き付けられたフィルムも。
だから、写真を撮るということは、事物の神聖化なのだ。
事物への信、それによって世界との関係を取り持つ。そうやって、自分の身体が把握するのとは別様に世界を捉える/捉えなおすこと。
そして、自分の身体が生きるのとは別様のありえた/ありえる生を生きる/生きなおすこと。写真はひとまずそんなところまで開かれているのではないだろうか。