写真への試論・断片と補足

・なぜ、見るものの目を混乱させる写真(「見るものを混乱させる写真」ではなく!)の存在可能性を志向するのか。

 

それは、目が全く混乱しない写真においては、単なる同定しかありえないから。これはAというものの写真、これはBという場所の写真。ラベルとイメージの強制的なイコール。有無を言わさぬ事実の提示。

 

 

・規範的写真の耐えがたい氾濫。

 

 

・幾人かの作家が追い求めた「文体の透明さ」、それは主体の不透明さゆえこそ志向されたのではないのか?

 

 

・規範的写真、意味的な写真、イデオロギー的写真。

「規範からの"逃走"」、反意味的な写真、反イデオロギー的写真。

「規範からの"漂流"」、非意味的な写真、非イデオロギー的写真。

 

 

イデオロギー的写真と反イデオロギー的写真は、結局のところ同根なのである。なぜならば、それは何かしらの方向に向かう写真だから。

 

だからこそ、第三項としての非イデオロギー的写真が必要だ。どこへ向かうとも決まっていない、漂流としての営みであり作品。

 

 

・"部分"を撮り続けていく、ということ。

 

完成された一枚の写真などない。全ては未完成であり、部分であり続ける。だからこそ撮り続ける。

 

写真を撮るという営み、ないし撮られたそれぞれの写真には、何かの目的-終わり(fin)があるわけではない。無限に=目的を持たず(sans fin)。

 

 

・当然のことだが、意味的な写真も反意味的な写真も、ある方向-意味(sens)を持つ。共有された規範の方を目指すか、規範の真逆を目指すか。

非意味的写真はそうではなく、意味を持たない。

規範からの漂流、意味-方向(sens)をもたない写真……。

 

 

 

・しかし、非意味的写真は決して「非共有的写真」だというわけではない。非意味的写真においては意味が開かれており、そしてそこにおいてこそ共有への道は開かれている。

それは決して、意味そのものの共有ではないだろう。意味の共有は、拒絶はされないとしても強制もされない。

 

そうではなく、写真そのものの共有。意味から離れることによってこそ、写真そのものの共有へと近づいていける。そうして結局、「事物への信」のテーマへと戻ってくる、ような気がする。