写真への試論・断片と補足

・なぜ、見るものの目を混乱させる写真(「見るものを混乱させる写真」ではなく!)の存在可能性を志向するのか。

 

それは、目が全く混乱しない写真においては、単なる同定しかありえないから。これはAというものの写真、これはBという場所の写真。ラベルとイメージの強制的なイコール。有無を言わさぬ事実の提示。

 

 

・規範的写真の耐えがたい氾濫。

 

 

・幾人かの作家が追い求めた「文体の透明さ」、それは主体の不透明さゆえこそ志向されたのではないのか?

 

 

・規範的写真、意味的な写真、イデオロギー的写真。

「規範からの"逃走"」、反意味的な写真、反イデオロギー的写真。

「規範からの"漂流"」、非意味的な写真、非イデオロギー的写真。

 

 

イデオロギー的写真と反イデオロギー的写真は、結局のところ同根なのである。なぜならば、それは何かしらの方向に向かう写真だから。

 

だからこそ、第三項としての非イデオロギー的写真が必要だ。どこへ向かうとも決まっていない、漂流としての営みであり作品。

 

 

・"部分"を撮り続けていく、ということ。

 

完成された一枚の写真などない。全ては未完成であり、部分であり続ける。だからこそ撮り続ける。

 

写真を撮るという営み、ないし撮られたそれぞれの写真には、何かの目的-終わり(fin)があるわけではない。無限に=目的を持たず(sans fin)。

 

 

・当然のことだが、意味的な写真も反意味的な写真も、ある方向-意味(sens)を持つ。共有された規範の方を目指すか、規範の真逆を目指すか。

非意味的写真はそうではなく、意味を持たない。

規範からの漂流、意味-方向(sens)をもたない写真……。

 

 

 

・しかし、非意味的写真は決して「非共有的写真」だというわけではない。非意味的写真においては意味が開かれており、そしてそこにおいてこそ共有への道は開かれている。

それは決して、意味そのものの共有ではないだろう。意味の共有は、拒絶はされないとしても強制もされない。

 

そうではなく、写真そのものの共有。意味から離れることによってこそ、写真そのものの共有へと近づいていける。そうして結局、「事物への信」のテーマへと戻ってくる、ような気がする。

写真への試論

・一度見たものをあらためて撮ること

 

例えば、丘の上にある教会を訪ねる、そんな小旅行とするとして。

 

 

なんということはない、半時間もあれば登れてしまうような丘。途中にはきれいな景色もたくさんあるだろう。

 

写真の話をしたいので、カメラを持っているということは前提にさせてほしい。さて、僕はどんな写真を撮るだろうか。

 

たくさん撮り過ぎたら後から整理するのが大変だから、行きがけにいいと思った景色を帰りがけに撮ろう。そんなことを思いながら坂を登っていく。丘の上にたどり着き、教会を見学し、あたりを散策する。そして、しばしの休息を挟み、来た道を下っていく。

 

 

その道すがら、写真を撮ろうと決めていたスポットにやってきて、ファインダーを覗き込んだとき。僕は、最初この景色を見たときほどの興奮を覚えていない自分に気づくことになるだろう。それどころか、その景色が最初見たものとは異なっているような気さえするかもしれない。そうして結局、何も撮れなくなってしまう自分の姿が見出されるに違いない。

 

というのも、例えば帰りがけにその教会の写真を撮ろうとしても、どうしても不完全なものに思えてしまうからだ。その丘の上に咲いたバラの赤や、教会の横に規則正しく並んでいる墓に飾られた故人の写真や、教会の内部の黴の匂いを伴った静けさを知った後には、どうやって撮ろうとしても、違和感を感じてしまう。どうやって撮ろうとしても、何かが欠けているような、何かすくい上げられていないことがあるような気がしてしまう。

 

 

躊躇してしまう。一度見たものを改めて撮ることへの否応なき躊躇。"全て"を撮ることの不可能性が私たちに迷いをもたらす。そうして、結局何も撮れなくなってしまう自分が見出されることになるだろう。

 

全てを撮ることはできない。何らかの形で有限化しなければ、写真は撮れない。写真を撮るという行為は、有限化だ。

 

 

   * * *

 

 

・内的規範

 

突然個人的な体験から出発してしまったが、許してほしい。

「一度通った道の景色を帰りがけに撮る」こと。その行為につきまとう躊躇、違和感。そこから出発して、写真を撮ることについて考えてみる。

 

 

ではもし、その違和感に取り合わず、躊躇せずに写真を撮るとして、それはどんな写真となるのだろうか。言い換えれば、全て(ないしより大きな部分集合)を見てしまった状態で、それをどのように有限化するのか。

 

そんな状況で写真を撮るものはみな、無意識に内的な規範に頼ることになるだろう。

 

 

なんらかの内的な規範に強く規定された写真。

集合写真という例は非常にわかりやすい。集合写真においては、全員の顔が(ときに身振りをともなって)枠内に写っていることが要求されている。

だが、同じことは他の写真にも言える。例えば風景写真においては一般に、「均整のとれた構図のもとで、美しいとされている風景が写っている」ことが規範となっているだろう。

 

 

そのような規範に規定された写真を撮ること。レンズが捉えているものをフィルム(ないしセンサー)に投影するのではなく、私たちが内に抱いているイメージをファインダーに投影すること。

それは、単に写真を撮る/写真が撮られるという事態からもはや離れて、自分の作りたい写真を作る作業に近づいていくだろう。

 

別の言葉で表現するなら、何を撮っているのかよくわかる写真。私たちの目を決して戸惑わせることのない、整理された写真。

 

・非意味的な有限化

 

もちろん、規範に規定された写真・整理された写真も、私(たち)にとって快いものでありうる。

しかし、だからと言って冒頭に書いたような躊躇、迷いが消えるわけではない。「それでもいいから撮れ」というのは、今の僕にとっては、どこまでいっても自らに対する欺瞞でしかない。

 

一度見たものを改めて撮ること。一度見たものの中から、自らの内的規範に照らし合わせて意味を探し、それを再構成してイメージを作る。私たちは、そんな写真の作り方にあまりに慣れてしまっている。

 

 

規範によって規定される有限化に陥らないために。そのために、非意味的な有限化が必要なのではないだろうか。

単に"無"意味な、ということではなく、なんらかの意味によらない有限化を志向する。なぜなら、意味を求めようとすると、私たちは私たちのうちにそれを探さざるを得なくなってしまうから。

 

そしてそのために、何かを見て印象に貫かれたその瞬間にシャッターを切る、という実践が必要になるのではないだろうか。

その印象が、自分の中で意味を結んでしまう前に、写真を撮る。そして、それを積み重ねていく。

 

見るように撮る。見たものを撮るのではなく。

自分の目をカメラに近づけていくのではなく、カメラを目に近づけていく。

 

そもそも、私たちの目の動きはしばしば非意味的である。だから、ときには見たくないものも見てしまうのだが、同時にだからこそ、見る予定ではなかったものも見ることができる。

 

 

・規範からの漂流

 

僕が追い求めているのは、決して「規範からの"逃走"」ではない。

規範からの逃走としての写真とは、例えば誰かが意図的に写っていない集合写真であったり、それとわかるほどに構図がめちゃくちゃな風景写真であったりするかもしれない。また例えば、壊れたカメラで撮った写真、完全に感光して真っ白な写真なんかもありえるかもしれない。もちろん、写真はそういった可能性へも開かれていてしかるべきだ。

 

 

しかし、僕が志向しているのは「規範からの"漂流"」。

 

規範から一直線に(真っ直ぐに/同じ方向に)逃げ出していくのではなく、方向を定めぬまま、規範からゆっくりと自分を押し流していく写真。

 

 

そして、規範的なものから離れていくことで、その写真を撮った本人だけではなく、その写真を見るものも規範的なものから離れていけるということ。見るものをこちらへと誘いながら、同時に彼方へと押し流すような。

 

集合写真を見るときには、写っている人を探すのが普通(であり規範)だし、水平線に沈む夕日の写真を見たら、その朱色に目が奪われるのが普通なのだ(繰り返しておくが、僕はそんな写真の在り方を否定しない)。

 

そうではなく、見るものの目を戸惑わせる写真。

印象派の画家たちが、私たちの目に(目が)どんな像を結ぶかを賭けたように(言い換えれば私たちの目にいくつもの可能な像を結ばせうるというその複数性/決定不能性を)、その写真が眼にどのように見出されるのか、という賭け。

 

 

   * * *

 

 

・事物の神聖化

 

ここで終わっておけば収まりはいいのだが、もうひとつの疑問が立ち上がってくる:なぜ写真に収めなくてはならないのか?なぜ、その印象を目に焼き付け、その瞬間を心に刻むだけでは不十分なのか?

 

 

私たちは、事物への尊敬を忘れている。

私たちがその景色を再び想起するとき、その想起さえも内的な規範に侵されないという保証がどこにあるだろうか。

 

僕は「事物を信じている」。ファインダーの向こうに見えた事物たちも、その画を焼き付けられたフィルムも。

 

だから、写真を撮るということは、事物の神聖化なのだ。

 

 

事物への信、それによって世界との関係を取り持つ。そうやって、自分の身体が把握するのとは別様に世界を捉える/捉えなおすこと。

 

そして、自分の身体が生きるのとは別様のありえた/ありえる生を生きる/生きなおすこと。写真はひとまずそんなところまで開かれているのではないだろうか。

ギリシャ旅行記(後編)

5/14(火): デルフォイ観光

 

さて、この日はコリントスへ行こうと思っていたのだが、前日のバスでコリントスの横を通り過ぎてしまい、なんとなく、もう一度同じ方面へ向かうよりも、全く別の方へ行ってみたくなってしまった。そこで、急遽前夜にデルフォイに行くことにしたのだった。

そのため、前々日の情報収集の際、デルフォイへの行き方は全く調べていなかった。しかし、ネットの情報によればアテネの2つのバスターミナルのうち、Liosionというターミナルの方に向かえば良いらしいということがわかり、これで満足してしまった。

 

   * * *

 

この日は30分以上は余裕を持って到着することができた。往復のチケットを購入し(32€と思ったより高かった)、バスへ乗り込む。

途中休憩をはさみつつ、バスはだんだんと山を登って行く。前日のミケーネ行きのバスとは少し風景が変わってくる。山肌をなぞるようにして、ゆっくり登って行く。

 

3時間ほどでデルフォイに到着。デルフォイはミケーネとは違い、ホテルも土産物屋も複数あり、少し観光地化していた。とはいえ、かなりの田舎、というより山の上に取り残された集落というような印象を受ける。

予報は雨だったが、曇りときどき晴れという感じで、暑すぎずちょうどいい天気だったのは幸いだった。

 

f:id:PostOffice:20190527223855j:plain

バスを降りたあたりから。

 

朝から何も口にしていないので、ひとまずタベルナを探す。道を歩いているといくつかタベルナがあるのだが、どこもあまり安くない上に客引きがしつこい。客引きがしつこいっていうことは、客が寄り付かないような店だっていうこと。店の中をのぞいて見ると、案の定誰もいない。昨日のフィクティアのタベルナを懐かしく思い出すとともに、デルフォイの残念な部分を垣間見た悲しみを感じる。

しばらく歩き、適当なタベルナに入店。

正直、今回の旅行の中で一番印象に残らない食事だった。やっぱりデルフォイは観光客慣れしてるのか?適当な料理出してんのか?なんかそんなことを勘繰ってしまった。ちょっと高かったし。

 

店を出て、遺跡へと向かう。ちょっと悪い印象から出発したデルフォイ観光だが、歩いてみると魅力的な街だとは思う。街というか、集落が山肌にしがみついているような格好だ。そんなわけで、坂や階段がたくさんある。

 

f:id:PostOffice:20190527221657j:plain

少し坂を登ったあたりからの眺め。

 

遺跡への道案内などは特に何もない。やはり観光客はほとんどツアーで来ていたようで、個人の観光客にとってはちょっと大変だった。適当に歩き回っても見当たらず、Google Mapで探した道は行き止まり。たどり着くまでが一苦労だった。

 

   * * *

 

例によって遺跡については写真の方が雄弁に物語ってくれるだろう。

デルフォイは、「デルフォイの神託」でも知られる古代都市。

 

 

f:id:PostOffice:20190527213642j:plain

「世界のへそ」。

 

f:id:PostOffice:20190527213603j:plain

アポロン神殿の遺構。ここで「デルフォイの神託」が行われていたのだとか。

 

f:id:PostOffice:20190527213636j:plain

劇場跡。奥にあるのがアポロン神殿。こうして見ると、デルフォイの遺跡が山肌にしがみつくようになっているのがよくわかると思う。

 

f:id:PostOffice:20190527213629j:plain

競技場跡。古代オリンピック競技が行われていたらしい。

 

遺跡を見終わった時点で、1時間ほど暇があったので、バス乗り場近くのカフェへ。結構高かったのだが、テラス席の景色が(無駄に)めちゃくちゃ良かった。カプチーノを飲みつつバスを待つ。

 

f:id:PostOffice:20190527220606j:plain

カフェからの眺め。

本当に絶景だった。

 

定刻を15分ほど過ぎてバスがやってきた。バスに乗り込み、3時間ほど同じ道を揺られてアテネに帰る。

 

   * * *

 

さて、これがアテネでの最後の夜である。ギリシャではぜひシーフードを食べて帰りたいと思っていたのだが、未だありつけていなかったので、今夜は必ずシーフードを食べるのだという強い信念を持っていた。

 

というわけで、ちょっと人気店っぽいタベルナに入店。メニューを一読し、タコのグリルを発見。即決した。

ところが、注文したところ「今日はもうなくなった」と言われてしまった。というか、シーフード系がほぼないらしい。

どうしよう。シーフードは食べたいが、ここで退店するのも少し失礼な気もする。けれど、今日を逃すともうタベルナに行く暇はない……。そんなことを束の間考えたが、当座腹が減ってしまっており、もう一度タベルナを探そうという気力もなかった。結局、妥協して「クレタカルボナーラ」を注文する。

 

不本意な注文ではあったが、腹が減っていたのでやけに美味しく感じた。本当に美味しかったのかもしれない。それに、このパスタは結構お腹にたまった。

 

f:id:PostOffice:20190527220930j:plain

写真も雑。疲れていたのだろうか?

 

満腹感と失望の入り混じった複雑な気持ちで宿へ向かっていると、あるタベルナの看板が目に入った。シーフードが売りのタベルナらしい。

今日はもう食べられないが、明日の昼に時間をつくって食べに来れないだろうか…?そんなことを考え、お店の人に確認。

 

「明日の昼は空いてるよね?シーフードちゃんとあるよね?」

 

先ほどの「シーフード売り切れ」がトラウマだったので、何度も確認する。どうやらあるらしい。必ず明日ここに来るという決意を固め、再び帰路についた。

 

アテネ最後の夜は予定通りいかなかったけど、無事デルフォイに行けたことへの安堵に包まれ、ともかくも宿に帰り着いたのだった。

 

 

 

5/15(水): エピローグ、 アテネ市内観光とイカフライ

  

最終日は、まだ見れていなかったアテネ市内の史跡を巡ることにしていた。古代アゴラやゼウス神殿に加え、アクロポリス博物館にも行く予定だった。

 

   * * *

 

朝、まずはアクロポリスを再訪。人がいない時間帯にパルテノン神殿をもう一度見たかったのだ。結果的に、人はそんなに少なくはなかったのだが、前回(日曜日)に比べて少し落ち着いて見学することができた。

 

 

パルテノン神殿から下りて、古代アゴラへ。ここはそれなりに有名なはずなのだが、時間帯的にツアー客がおらず、貸し切り状態だった。

 

f:id:PostOffice:20190527213619j:plain

木々が多くてわかりにくいのだが、古代アゴラ。奥にはアクロポリスが見える。

 

次にアクロポリス博物館へ。ここはかなり新しい博物館だったのだが、個人的にはちょっと微妙だった。というか、エンターテイメントに振ってる感じで、あまり好きではなかった。ちなみにここも当然無料。

  

そして、ゼウス神殿。柱が高い。

 

f:id:PostOffice:20190527213614j:plain

ゼウス神殿。現在は柱がいくつか残るのみ。

ちょっと「遺跡疲れ」している身だったので、劇的な感動はもはやなかったが、もし全ての柱が残っていたら壮観だっただろうな、としみじみ。

 

   * * *

 

史跡巡りのスケジュールを全て消化し、残すところはシーフードである。例によって朝食はとっていなかったので、ちょっと急ぎぎみに昨日目をつけていたタベルナへ。

店についてみると、ちゃんと営業していた。よかった。

 

 

メニューを一読する。シーフードのラインナップは充実している。というか、肉がない。全部シーフード。逆にすごい。

タコのマリネとイカのフライを選択。昼だったし自重しようと思ったのだが、後悔先に立たずと自分に言い聞かせ、白ワインをいただく。

 

 

f:id:PostOffice:20190527221209j:plain

こんな感じ。

 

タコの方も美味しかったのだが、イカのフライが絶品だった。まず、熱々の状態でサーブされたのがよかった。イカそのものも美味しい、っていうか甘い。量は多めなんだけど、胴も足も耳もいたから飽きない。各部位のサイズから見るに、おそらく小さめのイカを丸ごと使っているのだと思う。

 

 

そんなわけで、ギリシャでの最後の食事は大満足であった。このあと宿に戻って荷物をピックアップしてから空港へ向かい、帰りの飛行機に乗ったのだった。

 

   * * *

 

後編はあっさりめでしたが、最後まで読んでくれてありがとうございます。他の行き先の旅行記も書けたらいいけど、時間もなくて無理そう。ひとまず、残りの日程を無事に終えて帰ってくることを目標にして、最後の1ヶ月を過ごそうと思います。

ギリシャ旅行記(前編)

○5/11(日): 前段、アテネ到着

 

この日は夜までクロアチアドゥブロヴニク(Dubrovnik)にいた。

 

本来、この旅行はギリシャ訪問がメインイベントだった。それなのにこの場所に寄ることに決めた理由は2つ。クロアチアに行ってみたかったということと、アテネ行きの安い飛行機が飛んでいたということ。実際、クロアチアらしさというよりは、旧共産圏の影とアドリア海のリゾート地らしさ(とそれに起因する物価の高さ)を感じることになったのだが。

 

というわけで、この日は21:50発の飛行機に乗る予定だったのだが、案の定遅延した。案の定というのには理由があって、この便はVoloteaというなかなか聞かない名前のLCCが飛ばしていたから、以前から少し不安を持っていたのだった。

結局飛行機は1時間以上遅延し、加えて1時間の時差もあり、アテネに着いたのは現地時間翌02:00頃。疲労困憊の中、小一時間バスに揺られて(立ちっぱなし!)、ようやく宿までたどり着いたのだった。

 

  

○5/12(月): アテネ市内観光、スニオン岬

 

アテナイのアクロポリス

 

そんなわけで、翌日は朝になっても爆睡していた。目覚めたのは10時くらいだったと思う。

遅延がなくともかなり夜遅くに着く予定だったということもあり、この日はあまり遠出せず、市内(主にアクロポリス)とその近郊(といっても道のりで100kmほどあったが)を観光することにしていた。

 

まず向かうはアクロポリスアクロポリスの徒歩圏内に投宿していたのはラッキーだった。道中の市場でイチゴを買って朝・昼ごはんにする。1€分と言ったつもりが、1kgと勘違いしたらしく、山盛りのイチゴを渡されてしまった。それでも2€くらいだったけど。

 

   * * *

 

アクロポリスを含む7つの史跡は、共通チケット(30€)で回ることができる。EUの学生はタダ。

 

・余談: ギリシャで回った史跡や博物館は全て、EUの学生は無料だった。今回の旅行で、少なくとも70€は節約できた。複数回入った施設の分も考えると、軽く100€は浮いた。

フランスでも多くの場合無料、少なくとも割引は存在する。でも、北欧や中欧では、EU圏の学生でも通常の料金を払わされることが多かったので、各国で格差があるのだろうと思う。その意味で、ギリシャには好感を持った。むしろ自国の経済は大丈夫なのかと問いたくならないでもないが、学生以外からはしっかりむしり取っているからいいのだろう。 

 

   * * *

 

日曜とはいえまだ5月なのに、アクロポリスは人が多かった。7月などはすごいことになるのだろう。

ここに登るに至ってようやく、アテネに来たのだという強い実感を得た。

 

f:id:PostOffice:20190518014258j:plain

音楽堂。なんとまだ現役で使われているらしい。

 

f:id:PostOffice:20190518014312j:plain

パルテノン神殿。人が多かったので後ろから。

 

どこを訪れるにしても、「2度目がある」と思うのはあまりよくないとは思う。でも、できたら残り3日間のうちどこかで、人がいない早朝に来よう、と思った。

 

 

・スニオン岬(ポセイドン神殿)へ、早速の受難

 

13:00過ぎ。この日のアテネ市内観光はひとまず終わり。次はスニオン岬なのだが、そこへ向かうバスと、翌日訪れる予定であったミケーネへ向かうバスが"問題"であることは、来る前からわかっていた。そのため、情報収集のために奔走していたのだが、これについては翌日の部分に書くことにしよう。

 

さて、ネット上の情報によると、スニオン岬行きのバスの発車場所と思われる位置はだいたい判明していた。発車時刻は、午後だと14:05、15:30、17:05(最終)とのことだった。

 

15:15頃、バス発車地点周辺に到着。ターミナルとかではなくただの道路で、バスが何台か停まっている。そして、歩道の一角に券売所のようなところがあった。どうやら運行会社らしい。

「スニオン行きはどこから発車するか?」と尋ねると、目の前から少し左側くらいを指差し、「ここだ」と言われた。

よかった、15:30のバスに無事乗れそうだという安堵感に包まれ、すぐそばのキオスクで水とアイスを購入。バスを待ちつつ、乗車場所の真ん前で悠々とアイスを食べる。この時は、完全に成功を確信していた。

 

アイスを食べ終わり、ふと時計を見ると15:29になっていたのだが、バスが来る気配はない。少し変だなと思ったのだが、間違えているはずはないという謎の確信とともにバスを待っていた。



15:35くらいになってさすがに少しおかしいと思い、先ほどの券売所の人に「バスはここに来るんだよね?」と聞くと、「違う、あっち!」と言われる。

 

え?

 

完全に意味がわからなかったのだが、どうやら先ほど左側を指差していたのは、真ん前の道路ではなく、その向こう側のスペースだったらしい。

 

f:id:PostOffice:20190517223436p:plain

この図でだいたいお分かりいただけるだろうか

 

何が起こったのか考える暇もなく、とにかくダッシュで乗り場へ向かうものの、ここは始発停留所のため非情にもバスは定刻発車。なんと1時間半待ちが発生してしまった。

 

とはいえ、券売所のおじさんは何も悪くないので、しょうがない。ちょうど近くに国立考古学博物館があったので、そこで時間を潰すことに。「博物館で時間を潰す」なんてことができるのも、EU圏学生ビザのおかげである。ありがたい。

 

   * * *

 

17:00頃、無事バスに乗車。1時間半ほどバスに揺られて、スニオン岬に到着。

さて、このスニオン岬は、アテネの所在するアッティカ半島の最南端であるばかりではなく、ポセイドン神殿の存在でも知られる。

 

 

f:id:PostOffice:20190518014939j:plain

ポセイドン神殿。

 

f:id:PostOffice:20190518014943j:plain

神殿のそばから西方を望む。半島最南端とはいえ、島はたくさんある。

 

f:id:PostOffice:20190518014931j:plain

帰る直前に。


 

 

20:00、アテネ行きの終バスに乗る。終バスが20時だと、日の長い時期は夕日までいられないのが少し惜しい。ツアーだと、夕日まで見て帰れるというのを売りにしている。個人手配だとそれはなかなかできない。

 

22:00頃に宿に帰ったのだが、お腹がペコペコ。この日は、アクロポリスへの道中で買った(買わされた)1kgのイチゴと、バスを逃しながら賞味したアイスしか食べていない。ということで、近くのタベルナへ。タベルナというのは、ギリシャ風食堂/居酒屋のこと。

 

f:id:PostOffice:20190518011831j:plain

ギリシャ風サラダ。チーズがどでかい。

ギリシャ風サラダは、写真の通り鎮座している山羊のチーズが特徴らしい。これだけでもお腹いっぱいになりうるボリューム。

 

f:id:PostOffice:20190518011830j:plain

ムサカ(moussaka)。底の方にはひき肉がごろごろ。

ムサカ(moussaka)というのは、ギリシャ風ラザニアらしい。これが本当においしかった。昨夜から大変な旅路であった身にしみわたるおいしさだった。とりわけ茄子の滋味を強く感じる。

 

宿に戻る。心身ともにかなり疲れていたので、この日も爆睡。こうしてようやく、ギリシャ旅行1日目が終了したのだった。

 

 

○5/13(月): ミケーネ観光

 

・序章 - 情報収集

 

さて、この日はミケーネに向かうことにしていたのだが、ミケーネへ向かう電車はない。というか、ギリシャ自体EU諸国と比べてあまり鉄道網は発達していないらしい。そこで長距離バスを使うことになるのだが、インターネット上の情報があまりにも少ない。

運行会社のHPには運行時間が書いてあるものの、肝心のバスターミナルに関する記述がなく、ただ「アテネ」としか書かれていない。旅行記やフォーラムにも断片的な情報しかない上に、そもそも旅行記を当てにするのはあまりにも心許ない。

 

本当にここはEU加盟の先進国なのだろうか……。ちょっと失礼だが、そんなことを考えた。経済の停滞があったにせよ、良くも悪くもこの国は少し古い生き方を続けているのだと感じる。ちょっと時計が戻っている感じ。そこに好感を抱くこともあれば、こうして困ることもある。

 

スニオン岬に関する情報は比較的多かったのだが、ミケーネと(後日向かうことになる)デルフォイに関しては情報が少ない。後から分かったのだが、こうしたいわば僻地には、普通はバスツアーやレンタカーで行くらしい。しかし、バスツアーに払う金もなく、異国で運転する資格も度胸もない自分は、できるだけ個人で向かいたいと思い、前日に情報収集をすることにした。

 

 

     * * *

 

 

まずはラリッサ駅(アテネ中央駅)へ向かってみた。中央駅とは書いたが、ラリッサはかなり寂れた駅だった。ここなら何か情報を得られるかという期待を萎ませつつも、インフォメーションの人に聞いてみると、以下のように言われた。

 

「おそらく2つのバスターミナル、リオシオンかキフィソスのうちのどちらかだが、どちらかはわからない。」

 

f:id:PostOffice:20190517223808p:plain

ラリッサ駅の受付のおじさんの証言。メモを渡してくれた。

 

わからないのか……。早速挫折を味わいつつ、丁重に礼を言って撤退。

 

次は、先述のスニオン行きのバス乗り場へ。そのチケット売り場のおじさんに聞いてみる。曰く、

 

「キフィソスだね。」

 

f:id:PostOffice:20190517223812p:plain

なぜかみんなメモを渡してくれる。優しい。

 

なるほど、やはりキフィソスなのだろうか。しかし、この国はいろいろ適当だし、2人に聞いてみたくらいでは安心できない。少し歩いたところにあるバス会社のチケット売り場でも同じ質問をしてみることにした。

 

この窓口の女性は、かなり丁寧に説明してくれた。 

「キフィソスからミケーネに行ける。キフィソスへは、オモニアから051番のバスに乗っていけば着ける。」

 

f:id:PostOffice:20190517224127p:plain

めっちゃ丁寧に教えてくれた。

 

これでさすがに確実だろう。ミケーネに行くにはキフィソスのバスターミナルへ行けばいいことは間違いないらしい。少なくとも、この人の証言は最も信用に足るものだった。

こうして、謎解きアトラクションめいた情報収集を終えたのだった。

 

 

・バスでミケーネへ

 

当日は8時前に起床したと思う。シャワーを浴びて、まだ寝起きのままミケーネ行きのバスの時間を調べた。

正確にはわからないながらも、最も信憑性の高そうな英語のサイトによれば、今から間に合うバスは09:30、次が11:00らしい。天気予報によれば雨も降るらしく、できれば早い時間に行きたいと思ったので、間に合うかはわからないが(そしてそのバスがあるのかもわからないが)09:30のバスを目指し、ホステルを出た。なぜいつもこう、事前に調べるということができないのだろう。

 

キフィソス直通のバスがあるらしいのだが、道路状況によって平気で遅延する可能性もあるので、地下鉄で向かう。

 

最寄りの地下鉄駅に降りたのが09:15。バスターミナルまでは1km以上あるらしい。チケットも買っていないので、やむを得ずタクシーをつかまえる。

何分で着くか?と聞くと、首をひねりながら"traffic"と言われた。やはり道路状況によるということなのだろう。少し不安になるも、結局5分ほどで到着。

ギリシャのタクシーは安めなのだろうか、道のり2kmで3.7€ほどだった。チップを渡しても5€いかない。

(余談だが、パリだといくら短くても最低7€は払わないといけないというルールがある。だからUberなんかを使いたくなるわけだけど。)

 

さて、チケット売り場とおぼしきコーナーへ。どうやらネットの情報通り、09:30発のバスがあった。往復のチケットを購入し、目の前に止まっているバスへ乗り込む。

 

バスは定刻に発車した。

バスの目的地はナフプリオンという港町で、その途中にフィクティアという街がある。そこからミケーネまで数kmで着けるということらしい。

 

11時頃。「ミケーネ、フィクティア!」と運転手さんが告げて、バスが止まった。

なんと、40人ほどの乗客のうち、ここで降りたのは自分一人だった。さすがに数名は他にミケーネに行く人がいるだろう、そしてその人たちと情報交換しつつ向かえるだろう、と思っていたのだが……。

 

噂には聞いていたが、本当に何もないところに降ろされた。ともかく、すぐそこにあったお店に入って、ミケーネへのアクセスを聞いてみる。お店の女性が親切に教えてくれたのだが、やはり徒歩かタクシーということになるらしい。タクシーは5€らしく、お店の人が呼んでくれると言ってくれたので、タクシーで向かうことに決めた。

ただ、朝から何も食べていないので、腹ごしらえのために近くにあったタベルナに入った。

f:id:PostOffice:20190518004235j:plain

タベルナ。フィクティアがどんなところか、だいたい想像いただけるだろうか。

お店のおじさんにおすすめを聞き、ザジキ(tzatziki)とスブラキ(souvlaki)をチョイス。

 

f:id:PostOffice:20190518011340j:plain

ザジキ(tzatziki)。けっこうぎょっとする見た目ではある。

ザジキは、オリーブオイルをかけたヨーグルトにパンをディップする、って感じ。字面はすごいことになっているのだが、これが美味しい。ヨーグルトの味が独特で、普通のヨーグルトではなくていろいろ味付けされてる。

 

f:id:PostOffice:20190518011435j:plain

スブラキ(souvlaki)。一見焼き鳥っぽいのだが、味の方向性は「塩焼き鳥」とは全然違う気がする。

スブラキの方は、肉の串焼きのこと。鶏のスブラキをお願いしたのだが、これも美味しい。塩味は薄く、あくまで香草とレモンで食べるのが現地流ということらしい。

 

こんな辺鄙な場所のタベルナに来れたのも、何かの巡り合わせかもしれない。とにかくおいしかったし、安かった。

 

     * * *

 

さて、腹ごしらえを終えて、タクシーを呼んでもらおうとさっきのお店へ向かうも、先ほど応対してくれた親切な女性は休憩に入ってしまったのか、見るからに堅物なおじいさんが店番をやっていた。

「タクシーを呼んでほしい」とお願いしてみたのだが、自分で呼んでくれとのこと。まあそれが普通だよね。

で、タクシー会社に電話すると、「全車出払ってるから無理」というようなことを言われ、切られてしまった。かくなる上は歩くしかない。

 

ということで、とぼとぼ歩き始めた。道のりにして5kmほど。ミケーネは丘の上なので、行き(上り)はタクシーで行きたかったのだが……。

 

と思って歩いていると、横に車が止まり、「上まで乗っけていってやる」と言われた。結構つらそうな道のりだったので、お言葉に甘えて乗せていってもらった。ありがたい。

 

運転してたおじさんは、道中ずっと"Fuji!" "Tokyo!" "Kawasaki!"などと、知っている日本の固有名詞をずっと口に出していた。ちょっとよくわからなかったのだが、どうやら日本にいたことがあるらしい。ありがたい話。

 

そうしているうちに、丘の上に到着。さすがにありがとうで済ませるのもどうかと思い(それなりに長かったから)、少しお金を渡そうか、それはさすがに無粋だろうか、と考えていたのだが、なんと「トランクに積んでいるオレンジをあげる」という予想外のカウンターをもらってしまった。結局、送ってもらった上にオレンジまでいただき、何度もお礼を言ってお見送り(彼らはミケーネに向かっていたわけではなかったのに僕を拾って行ってくれたのだ)。 

 

     * * *

 

さて、肝心のミケーネ遺跡なのだが、これは写真の方が雄弁に物語ってくれるだろう。

 

まずはアガメムノンの墓。

f:id:PostOffice:20190518005443j:plain

アガメムノンの墓、入り口。

 

f:id:PostOffice:20190518005432j:plain

内部はこんな風になっている。

 

次いで、少し歩いたところにある宮殿(城塞)。

 

f:id:PostOffice:20190518020228j:plain

手前にある小高い丘の、城壁に囲まれたあたりが遺跡。

 

f:id:PostOffice:20190518010335j:plain

 

 

f:id:PostOffice:20190518010311j:plain

 

 

卑近な連想なのだが、建物の跡から草花が顔を出しているのを見ると、『ラピュタ』を思い出してしまった。

 

 

 

正直、僕は全然ギリシャ古代文明とかものすごく興味あるわけじゃなかった。ただ、専攻の先生から「ヨーロッパ旅行するならギリシャは絶対に見て来なさい」と言われたので、予定に入ってなかったギリシャを追加して旅程を組んだという経緯がある。

 

ミケーネ文明が興ったのは約3500年前、海の民に滅ぼされたのがそれから約300年後。世界史やってないからちょっと調べていっただけだけど。果てしない。

そして、(ミケーネはまた違うけど)ギリシアの文明が私たちに及ぼしているもの、とてつもない。そんな感じで、なんだか神妙な気持ちになってしまった。

 

 

 ・帰路、またの受難とアテネの危険地帯

 

さて、遺跡見学を終えて帰ろうという段になったのだが、どうやらミケーネからフィクティアまでバスが出ているらしい(フィクティアからは出てないのかよ)。駐車場にいる観光バスの運転手やカフェスペースの店員らが口を揃えて「3時にバスが来る」というので、それを待つことにした。歩いてもよかったのだが、雨も降っていたし、結構疲れていたし。

 

果たして、そのバスは(10分遅れだったが)やってきた。「このバスはフィクティアに行くよね?」と運転手に入念に確認し、乗車。路線バスじゃなくて高速バスみたいな車両が来たのだが、自分を含めて3人しか乗ってなかった。

 

先ほど車に乗せてもらって登ってきた道を下りていく。やっぱりけっこう距離がある。

 

で、フィクティアのバス乗り場周辺まで来たのだが、バスはここをスルー。どんどん進んでいく。

 

「ここで降りたいって言おうかな?」と思ったのだが、もしかしたらこのうら寂れた場所はフィクティアの中心地ではなく、このバスはその"中心地"へ向かっているのかもしれない、と思い直してやめた。

それに、Googleマップなんかずっと見て"保守的な"旅行をするのもなんだかなあ、という意味のない強がり(これも「自力で/自由に旅行すること」への信仰だろうか?)もあり、バスが行くままに任せていた。

 

しかし、10分くらい経って、さすがにおかしいと思ったので、「このバスはフィクティアに向かってるんですよね?」と聞いてみると、運転手は"あっしまった…"とでも言いたげな顔をしてみせた。

 

こいつやりやがった。「フィクティアに行くんですよね?」って確認したのに。ていうか乗客3人しかいないのに。何考えて運転してるんだ?

 

確かにバス乗り場にさしかかったあたりで「ここで降ります!」って言えばよかったのかもしれないが、それは結果論だろう。運ちゃんが「フィクティア?OK!」って言ってたんだからさ…。

 

といろいろ考えつつも、隣町のアルゴスまで到着。あとから調べてみると、フィクティアから10km以上離れている。ほんとなんなんだろう。

 

とはいえ、どうやらフィクティアからアテネに帰るバスは、ここにも停まるらしい。ナプフリオン→アルゴス→フィクティア→アテネという順番でバスは運行するので、ちょっと遠回りにはなるが、ともかく1本でアテネに帰れる。事情を説明すると、追加料金などはなしで乗っていいとのこと。

幸運にも、アルゴスに着いて10分ほどでバスが来た。アルゴス自体も遺跡があるらしいのだが、さすがにこれ以上の面倒ごとは勘弁なので、そそくさとバスに乗ってしまった。

コリントスなんかにも停車しつつ、18時頃にアテネに到着。ご飯を食べるにはまだ早いので、前日も訪れた考古学博物館に向かうことにした。なんとここは毎日20時まで開いている。

結局この日も見終わらなかったので、閉館時間20時頃に博物館を後にしてタベルナを探す。

 

空腹ではあったが、街歩きも兼ねて適当に歩きながらタベルナを探すことにした。

 

     * * *

 

博物館から宿の方向へなんとなく歩いていたのだが、途中で道を間違えてしまった。それに気づいたのは後の話なんだけど。

 

そもそも、アテネの都市設計(?)ってけっこう独特なものがある気がする。というのも、大きな通り同士って普通直角に交差すると思うんだけど、アテネだとそれに加えて斜めにぶっとい通りが走ってるパターンがあった。だから、なんとなく歩いていると、横断歩道を渡っているうちにその斜めの道に入っちゃう。どの通りも同じような店が続いてたし。

これが微妙な角度で交差してたらまだいいんだけど、ほぼ斜め45度で交差してるからタチが悪い。どういう角度で歩いて来たかわかんなくなっちゃう。自分は方向音痴ではないと思うんだけど、アテネではこういうところにアジャストできず、全然違う方向にずんずん歩いていっちゃった。

 

というわけで、道を間違えたことに気づいたときには、けっこう外れたところに来ていた。で、細い路地を通って宿の方向へ向かおうと考えた。タベルナも探したかったし、街歩きにもちょうどいいやと思って。

 

少し行くと、ホテルやレストランなんかがなくなり、その代わりに道に散乱しているゴミがどんどん増えていった。そして、あきらかに道行く人の"人種構成"が変化していった。

 

自分がパリで住んでいる街というのも少しそういうところがある。黒人が多いし、いわゆる"パリ"って感じじゃない。でもその代わり、物価は安い。

だから、そういうのに慣れて、感覚が麻痺しちゃってるところがあると思うんだけど。多分いわゆる"普通の日本人"が来たら裸足で逃げ出すんじゃないか、そういう感じの通りだった。

 

でも、そんな自分もさすがにかなり不安になってしまった。何しろ、土地勘が全くないから、何かあったときにどこに逃げればいいのか?っていうところもある。かといってスマホGoogle Mapをずっと見ていると(しかもアジア人が!)、犯罪者からすれば格好のカモなわけで。

というか、パリにある"こういう"通りの何倍も"ヤバい"感じがした。そもそも、街灯が少ないから、めちゃくちゃ暗い。それに、明らかに挙動がおかしい人が何人もいる。ずっと同じところをぐるぐる回っている人とか。歩道にしゃがんでうずくまっている人もたくさん。完全にヤクやってるよね。変な匂いが充満していることはいうまでもない。

 

 

いくら街歩きとはいえ、こんな見るからに危ないエリアからは脱出すべしと思い、結局このエリアからは早々に撤退。前日と同じエリアに向かい、タベルナに入った。前日の家庭的な(?)タベルナとはちょっと違って、テラスで音楽なんか演奏してる、そういう感じのとこ。

 

f:id:PostOffice:20190518011745j:plain

サラダ。具材が細切れなのは店側も楽なんだろうけど、実際食べやすくもあった。

名前忘れちゃったけど、ギリシャ風サラダの亜種だった。バルサミコ酢が入っていたのだが、こういう感じになるのねって思った。玉ねぎがおいしい。

 

f:id:PostOffice:20190518011800j:plain

またスブラキ。

またスブラキ。スブラキっていうのは羊肉でやるのがメインらしいので、ここでは羊をチョイス。バス移動中『イリアス』読んでたんだけど、『オデュッセイア』にしろ『イリアス』にしろ、肉といえば「牛」か「羊」か「山羊」だよなあ、と思う。鶏とか豚ではないよね。遺跡見たあとだったっていうのもあって、「これが古代の人々の食べていた肉の味だったのか...」などと感慨に浸っていた。今見返すとポテトとか満載なんだけどさ。

 

そんなわけで、ギリシャ旅行の前半を折り返したのでした。読んでくれてありがとうございます。後編もお楽しみに。

社会的コード逸脱のレッスン

この社会には、様々なコードが存在している。例えばそれらは、法律や社則といった形で明文化されていたり、マナーや礼儀や暗黙の了解という形で存在していたりする。

 

もちろんそうしたコードって、いわゆる社会を回していくにはどうしようもなく必要なんだけど、それがあまりにも自分の頭や身体を規制すると、ちょっと息苦しいと思う。息苦しいだけではなくて、コードを無視して振る舞う人間のせいで実害を被ることもある。

 

 

僕の周りには、社会的なコードに縛られ、それによってつらい思いをしている(とまではいかなくとも息苦しさを感じている)人が多いのではないかな、と想像している。それは僕の周りの人たちに限ったことではないのだろうが、その思慮深さゆえ、配慮の欠けた人々のためにより一層コードを意識する側に回っている人たちが、僕の周りにはとりわけいるのではないだろうか、と想像している。

 

だから、そんな人たちは、そのコードから逸脱することを覚えたら、少し楽になるような瞬間があるのではないか?という話。コードからの逸脱というのは、必ずしも他人に迷惑をかける"規則破り"ではなく、自分自身を解放することでもありえる。

 

これがどれくらい目新しい話かはわからないけど、それでも書いてみようと思う。

 

 

 

僕もえらそうなことは言えないのだが、僕は自分のことをかなり逸脱してしまった人間だと思っている。

 

おそらく僕は、いろんな面で典型的なマジョリティだと思う。でも、どこか(おそらくそれは複数)で道を踏み外してしまい、アウトサイダーになってしまったと思う。かっこつけてるわけじゃなくて、"普通の"レールに乗れてりゃよかったのにな、と思うこともある。

 

高校の頃も学校に行かなくなった時期があったし(ただしこれは、心の病みたいな深刻なやつではないんだけど)、多分その流れで大学でも授業に出なくなっちゃったし、そうして気づいたら、大学という場における最も致命的な踏み外しをやってしまった。

 

でもそのおかげで、というかそれがきっかけで、他の場面でも道を"踏み外せる"ようになったと思う。

 

 

道を踏み外すのを推奨するわけではないけれど、道を外れた方が自由になれることもある。それに、「踏み外し方」を知らないということが時として深刻な結果を招きうるということは、みんな知っていると思う。

 

 

もう道を踏み外しちゃってる人たちは、読んでも退屈しちゃうかもしれない。

 

 

 

・例えば、美術館での譲り合いで

 

別にね、授業全部欠席して留年しましょうとか、法律を破ってみましょうとか言いたいわけじゃないんですよ。もっと穏やかで、人に迷惑をかけず、自分が激しく不利益を被ることもない。そんな形で、まずはコードから脱け出してみたい。

 

ではそもそも、どのようなコードから逸脱するのか?という例として、ひとつ。

 

 

あまり上手くない例だなと思うんだけど、例えば、あなたは美術館にいる。そんなに混雑しているわけではなく、特に順路のある展示ではない。だから、皆めいめい好きな順番で作品を見ている。

 

そうしてある絵を見ていると、横に人が来た。その人も同じ絵を見たいらしい。そんなタイミング。

 

 

一般的に、周りに他に誰もいなくて、横に十分なスペースがあれば、ちょっと横にずれてあげたりするのが、ここでの「コード」といえると思う。

 

 

そんな状況で、あえてずれてあげない。いくら視界に入っていようと、私は集中しているから全く気づきませんよとばかりに無視する。僕はたまにこんな風にする。

 

 

別に僕は意地悪でやっているのではない。それに、人に少し場所を譲ったくらいで鑑賞の体験がそこなわれるわけではない。

 

そうではなく、(僕以外にもそんな人はいると思うのだが、)人が横にくると無意識に譲ってしまう自分が嫌になるからやっている。

 

フランスに来てから、自分から道や場所を譲るというような精神性をあまり持たない人たちに囲まれ、自分ばかり場所を譲っていると、彼らに対してというよりも、無意識にコードに従っていわば不当な扱いをされている自分の身体に対して不快感を覚える。

だからこそ、自らの不自由な身体への抵抗として、そのコードから脱していたいと思うのだ。

 

それにもちろん、そのコードに従うかどうか(=そのタイミングで場所を少し譲ってあげるかどうか)を自分で決められた方が、落ち着いて鑑賞できることも間違いないと思う。

 

例えばこんな感じ。

 

 

・例えば、歩いていて肩と肩がぶつかりそうなとき

 

もっとviolentな状況もあるかもしれない。必ずしも物理的な暴力が伴うという意味ではない。コードに従ってしまう自らの身体ではなく、相手の無法に抵抗するという状況。コードを守らない相手によって、コードを守っているはずの自分が、(物理的な意味に限らず)暴力的な仕打ちを受ける、そんな状況。

 

 

というか、僕の周りの思慮ある人々が苦しみがちなのは、むしろこういう状況なのだと思う。

 

だからこそ、より軽い"レッスン"を通して、こんな状況でも(コードを逸脱しつつ)自分を守る術を身につけることができるのではないか?ということ。ちょっとえらそうな言い方になっちゃったけど。

 

 

例えば、道を歩いているとき。特に、ラッシュ時の駅の通路とかで。たまにいるじゃないですか。あ、こいつぶつかってくる気満々やわ、っていう人。性差別するわけじゃないけど、客観的に見てほぼ100%男性。

 

(読み飛ばしてもらってかまいませんが: 僕は個人的には、こんな場面で自分が相手を避けなければならないというのは、非常に不当だと思う。自分が相手により大きな危害を与えうる場合は抵抗なく避けるけれど、大抵こんなやつらって僕より背が高くて体格のいい男性なわけで。

もちろん避けないということは法にすら触れてしまいうるわけだけど、その一方で、法は有用でありつつもそれだけでは万能ではない。そして、こんな場面というのは、主体同士の権利の衝突を端的に写し出していると思う。

……なのですが、ここではあまり関係ない上にちょっとアブノーマルすぎると思うので、続き(?)はここでは割愛。)

 

 

で、こういうときは、どちらかが避けるっていうのが「コード」ですね。だから、避けないでやってみるのはどうでしょう。っていって、どーんとぶつかっちゃうわけにもいかないので、相手に避けてもらいましょう。

 

じゃあどうするのか?

 

例えば相手の顔をまじまじと見てやりましょう。できれば、にっこりして。後ろに誰もいなくて邪魔になりそうじゃなければ、立ち止まってもよい。

 

 

僕の経験上、立ち止まって笑顔で目をまじまじと見た場合、どんなに狭い道でも100%相手が避けてくれます。意識高い系の日本人サラリーマンも、かっこいいフランス人学生も、ガタイがいい黒人のお兄さんも、みんな避けてくれる。

 

 

別に、頭おかしい人のマネをしろというわけではない(それもそれでいいけどね!)。もちろん、突然叫び出したり、カバンの中身をぶちまけ出したりしても、人は避けてくれるかも。でも、それは本質ではないし、目を見たり立ち止まったりすることで彼らが自分の方から身を退くのは、そんな理由からではないと思う。

 

そうではなく、「そのタイミングでぶつかるっていうのはあまりにも道理がないぞ」という風に考えさせるということなんですね。目が合っているやつにぶつかったり、立ち止まってるやつにぶつかったりするのは、いわばバカであるということ。

 

 

あえて分析的に言うならば、コードを逸脱する振る舞いは、相手にコードを意識させることにもつながるということ。

 

自分がコードを逸脱することで、相手にコードを守らせる。ときにはこうやって自分の身を守ることもある。

 

蛇足かもしれないけど、ひとつだけアドバイスを。必ず一対一で。主体の逃げ場を作ってはこの"遊戯"は成立しないから。

 

 

 

・まずは意味のない逸脱を

 

とはいっても、そんなことやるのは簡単じゃないし、なかなかやってみたいとは思わないかもしれない。

だからね、まずは意味のない逸脱をしてみましょう。

 

例えばコンビニのレジで、これ以上ないくらいニコニコして支払いをしてみたり。できればあんまり行きつけじゃないコンビニがいいかもしれないけど。

 

例えば道で、知らない人に話しかけてみたり。興味が出たから話しかけるのではなくて、全く理由もなく話しかけてみる。やっぱり、あまり普段行かない場所がいいとは思うけど。

 

 

もちろん、完全に支離滅裂なことをするのも楽しいんだけど。それよりも、別のコードに入っていくということの方が楽しいと思う。

 

言ってしまえば、何か別の主体になりきるということ。

僕はそうやって「別の誰か」になることに抵抗がない。それは例えば、「元気な居酒屋の店員」であったりする。ときには「陽気なアフリカンと一緒に話す日本人学生」であったりもするし、また「陽気なアフリカンに話しかけられて面倒くさそうにする日本人学生」であることもある。さらに、例えば「道でぶつかりそうになったら目を見てくる人」であったりもする。

 

さっき、道で人とぶつかりそうな状況について書いた部分とも少し関連するかもしれませんが、いわば道化をやるということですよね。

その道化を見てびっくりする人を見るのは楽しい。なぜならその"見物人"たちは、実は自らも僕の眼差しの中で道化となりうるということに気づいていないから。我が物顔で道を歩いていた人間が、突然コードを意識して"理性的な"振る舞いをすることのおかしさなど、考えもしないだろうから。

 

その立場の逆転の可能性に気づかない見物人=道化たち。そんな風に見えてきたら、自由にコードから脱け出せるようになるのもすぐだと思う。

 

 

知っている人の前では滅多にそんなことはしませんよ。それにもちろん、サークルみたいにある程度閉じた共同体で、必要なコードから意味もなく逸脱しているのを見るのは大嫌いだ。

 

でもその一方で、見ず知らずの人との摩擦の中で自分をすり減らすのはつらい。そこで、自分を規制するコードから脱け出してみましょう、ということ。

 

 

 

うーん、でも僕は、僕の友だちがそうやって道を踏み外しているのは見たくないし、最初に書いたようにそれは推奨するわけでもない。踏み外さずに道を歩いていけるということも大切だ。

 

じゃあなんで書いてるのかって話なんだけど、ひとまずは"踏み外し方"を知っているということが有用だからということにしておきましょう。

 

 

それに、そうやって自由になる過程というのは、楽しい。その自由が虚構なのだとしても、そしてコードに身を浸すことが楽でありまた必要なのだとしても、時にはその息苦しさから自らを解放することは楽しい。

 

 

何言ってるかわかんないっていうんだったら、まずはやってみましょう。

 

例えば、普段あまり通らない道で、通行人に話しかけてみる。

できれば昼間にね、夜にやると警察呼ばれちゃうかもしれないから。

 

 

で、おもむろに訊いてみる。「わんちゃんの名前なんですか?」って。もちろん、犬なんか連れてない人に。

アウシュビッツ訪問記

アウシュビッツを訪れたのは、4月22日月曜日のことだった。

 

いつものようにホステルに荷物を置き、パスポート、食料、カメラその他一式をトートバッグに詰め込んで、朝一番のバスに乗り込んだ。当初の予定を変更することが多かった今回の旅行の中でも、アウシュビッツへの訪問は最優先事項だった。

 

 

   * * * 

 

 

さて、最初に書きたいのは、カメラの話。

 

当初、収容所内での写真撮影は許可されていないかもしれないと思っていたのだが、一部の遺品を除いて写真撮影は許可されていた。 

 

もちろん、そこで写真を撮ることに対して、全く葛藤がなかったと言えば嘘になる。葛藤というほどではないにしろ、少しはそこで写真を撮ることの意味について考えることになった。

だが、(前回の記事でも少し書いたけれど、)僕はいつもこうやって、カメラを使って自分に刻印をして生きてきた。アウシュビッツで写真を撮るということに対する決断は、全く簡単にとはいえなくとも、十分にスムーズになされたことだった。

 

しかし。バスを降り、チケットを手に入れ、セキュリティゲートをくぐり、収容所の建物群に少し歩み寄ったところでカメラを取り出し、レンズを向け、シャッターを切ったその時。

「パシュン」という呆気ない音とともに、カメラの電池が切れたのだった。

 

 

 

そんな不思議なことがあるのか?という気持ちだった。カメラの替えの電池は持ってきておらず、早くも写真を撮ることは不可能になったのだが、それに対しての無念や、電池を持ってきていない自分への憤りなどは、全くなかった。ただただ、不思議だった。

 

 

僕は割とそういうタチなので、これは天啓だと思うことにした。「ことにした」というか、そう思った。写真を撮ることを咎められたとは全く思わないが、今日はそういう巡り合わせなのだ、と。

 

 

   * * * 

 

 

少し時系列は前後するが、電池切れを起こした際にどこかに不具合が生じたらしいということは、ワルシャワで新しい電池を買って装填したときにわかった。このカメラは二度と正常にシャッターを切ることができなくなってしまっていたのだった。

 

このカメラの後日譚は最後にするとして、その後のアウシュビッツでの出来事を記していきたい。 

 

もちろん、書きたいことは様々にあるのだが、その中でも書かなければならないと思うのは、この訪問を通して感じた非常にネガティブな部分である。できるだけ感情を排して、そのことについて共有したい。

 

 

   * * * 

 

 

それは、収容所の敷地に入ってすぐのことだった。しばらく歩いたところで、前方に自撮り棒をつけたスマホを持ったアジア人が、キョロキョロしているのが見えた。少し嫌な予感がしたのだが、果たして彼は僕に話しかけてきた。"Can you take a picture ?" みたいなことを言っていたと思う。

正直、この場所でセルフィーを撮りたいという感情は、全く理解できなかった。そんなことはすべきでない、と怒鳴りたい気持ちをこらえて、僕は完全に彼を無視した。

 

 

もしかすると、彼はネオナチだったのだろうか?

 

はっきり言って、それならまだいい。彼は、そのことの重大さを引き受ける引き受けないの前に、そうした前提が(ひとまずは)通用しない主義の中に身を置いていたということになるのだから。

 

 

問題は、彼がネオナチなどではなくいたって平凡なアジア人であった場合である。というか、おそらくそうなのだ。彼は、自分がどんな場所にいるのか、実際には理解していなかったのだ。

 

しかし、歴史を理解しないアジア人がセルフィーをすることと同じくらい嫌悪すべき光景を、その後で目の当たりにすることになる。

 

  

   * * * 

 

 

収容所の建物のうちいくつかは、中に入ることができる。そのうちの多くは内部が改修されて、各棟がある程度独立した展示をする形になっている。これらの展示棟でも、僕は非常に残念な体験をせざるを得なかった。

 

ある棟には、夥しい量の女性の髪が、横10mくらいの幅で積み上げられている一室があった。そして、かなりの人数である私たち見学者は列をなして、その髪をガラス越しに見ながら、流れに沿って進んでいく。僕はかなりの違和感を覚えながら見学をしていた。

 

 

流れに沿って進んでいく?ガラス越しに眺める?なぜ?

だって、この髪の毛を見ることは、例えばスーパーに陳列された様々な種類のお菓子を眺めることや、路面店に展示されているブランドものの服や靴を眺めることとは、全く異なるはずだ。

 

それを、まるでレジに並ぶように、もしくは混雑したエスカレーターの前で並ぶように、少し先を急ぎながら列をなして進んでいくというのは、どのような状況なのだろうか?

 

その彼女らの髪の毛、犠牲者の生の痕跡を、なぜ僕らは今、歩きながら、視線を滑らせながら見ているのだろう?

 

 

狭い通路で、長い列をなして歩みを進める前後の見学者の中にあっては、立ち止まって彼女らの生——"それ"以前の生であったり、"そこ"での生であったり、あるいは"それ"がなかったらあり得た生であったりするだろう——に想いを馳せることもできない。

 

 

例えば歩きながら、目を滑らせながら、両親の遺品や友人の墓標を見るということがあるだろうか?

 

 

これは両親の遺品でも友人の墓標でもないって?確かにそうかもしれない。見ず知らずの人の墓や遺品を訪ねてわざわざ旅行をする人なんていないんだからね。でもあなたたちは、それくらい大事なものを見るためにわざわざポーランドの片田舎までやって来たのではないですか?

 

 

これは例えば「○万人分の髪の毛」っていうようなものじゃないんだ。ある人の髪の毛、かけがえのないある人の髪の毛が、数万人分も十数万人分もあるんだ。それはお金みたいに交換可能な価値を持つものではない。

 

 

 

実際のところ、施設のキャパと入場者数の兼ね合いで難しい面もあるのだろう。ツアーで来ている見学者は、時間の制約もあるらしい。だから、僕は決してこの施設に対して不満を覚えていたわけではないのだが、この状況に漠然とした違和感を覚えていた。そこまではまだ良いのだが、それでもなお僕は、ネガティブな気持ちで見学を進めることを強いられた。というのも、ここでも見学者のマナーは見るに堪えないものであったからだ。

 

冗談を言い合いながら歩いてゆく若者たち。ツアーは団体行動だから仕方なくついてきてるんですと言わんばかりに携帯をいじる者。駅や空港で彼らがそうするように、隙さえあれば列に割り込もうというような者も、1人や2人ではなかった。

 

もちろん、厳粛な面持ちで見学をしている人も相当数おり(彼らの多くは一定の年齢以上であったと思う)、そうした人々がちらりと目に入るだけで救われたような気がしたものだった。

それに、鑑賞の方法というのは人それぞれであるということも理解している。しかし、彼らには何か、きわめて重大な何かが欠けていた。それは例えば、こうした場所を訪れるにあたっての厳粛なマインドとか、そういった種類のものではなく、もっと根本的なもの。

 

 

もう一度言うが、こういった見学者たちがみなネオナチだったらまだいいのだ。この場所に来てもなおナチス万歳と言ってのけるような人間や、そもそもここに足を運ばないというような人間の方が、まだよっぽどいいのかもしれないとさえ思う。

より深刻なのは、こうした人間が旅行を終えて、アウシュビッツを見学してきたという話をしたり、「この歴史を繰り返してはならない」とかいった言葉を口走ることだ。そう口走ってしまうことで、彼らにとってこの歴史を乗り越えられたものにしてしまうことだ。

 

彼らにとっては、ここに訪れることは単なる思い出作り、もしくは世間体のため——ポーランドに行ったのだから、アウシュビッツにも当然足を運んだのだ、という額面を得るため——でしかなかったのかもしれない。そういった動機でここに訪れるのは、教科書的な知識を得るのとさほど変わらないのかもしれないし、もしかするとそれより悪いかもしれないと僕は思う。安易かつ不誠実なやり方で、この場所を、そしてそこで起こった出来事を乗り越えてしまうということは、歴史の授業でしかアウシュビッツを学ばないことよりも悪いかもしれない。

 

 

   * * * 

 

 

彼らがここに足を運んだ根本的な要因は間違いなく、彼らが幼少期から紋切り型として徹底的に叩き込まれてきた「ナチス=悪」という戦後ヨーロッパ的図式である。

ホロコーストを繰り返してはならない。それは100%正しいと思う。しかし、「ナチス=悪」を議論の出発点に据えるような短絡的思想・教育は、果たして正義なのだろうか?

 

例えば、なぜヨーロッパではホロコースト否認が罰せられるにもかかわらず、イスラム教を風刺する漫画は「言論の自由」の象徴としてのお墨付きを得られるのか?という問題が真っ先に思い浮かぶ。病的にナチスを否定(というより嫌悪)するヨーロピアンたちは、何かの理にしたがってそうしているというより、ほとんど感情によってそうしているのだ、と言ってしまっていいだろう。

 

(おそらくこれを読んでくれている人たちはこの文脈を共有していないと思うので補足しておくと、僕の印象では、(少なくとも大学生・大学教員である)ヨーロピアンたちが「ナチス」「ホロコースト」などといった言葉を聞いたりそれに関して議論したりする際の様子はほとんど病的であり、それに対して異を唱えることは許されないという雰囲気である。「ナチス=悪」の図式は何かの議論の帰結というよりは、議論の前提、公理のようなものとして与えられている。あくまで個人的な印象であることを念押しするが、それは例えば平均的な日本人が日本でナチスについて話す様子とは全く異なっている。)

 

もちろんホロコースト否認はすべきでない。しかし、それならばイスラム教の侮辱もすべきでないし、また「言論の自由」は万能ではないということになる。が、彼らはそれを認めたがらない。

 

アウシュビッツは、絶対に繰り返してはいけない歴史だった。ニュルンベルク裁判に始まる、ヨーロッパにおけるナチスに対する病的なまでの反動・嫌悪も、理解できるものではあるし、それも確かに必要なものだったのかもしれない。しかし、結局それはモグラ叩きになってはいないか?70年以上が経過した今、他のところにモグラが出ることはあまりにも明らかなのに、それを放置していいのだろうか?

 

 

その根源たる戦後ヨーロッパ的教育プログラムはどうであろうか。学校で徹底的に反ナチ・反ホロコーストの紋切り型を教え込む。そして、アウシュビッツを見学させる。ドイツの高校生が修学旅行でアウシュビッツを訪れることも少なくないのだという。もちろん、他のヨーロッパ諸国からアウシュビッツを訪れる生徒もいる。この場所にとりあえず連れてくる、列に並ばせる。そして、この場所・この歴史を乗り越えさせ"てしまう"。

 

 

(補足しておくが、僕は単に戦後ヨーロッパ的(連合国的)第二次世界大戦史観を全面的に否定したいわけではなく、また例えば『日本国紀』的な視点に賛成したり、いわゆる右翼的な意味合いでの「自虐史観批判」を展開したりするつもりも毛頭ない。しかし、戦後ヨーロッパ的史観が歪んでいる、ということは事実である。歪んでいない歴史観など存在するのかどうかという問いはここでは措くとして、良くも悪くも歪みがあるという事実は認識しておかなければならないと思う。)

 

 

 

本当にこれで大丈夫なのか?という気持ちが、見学の途中にもかかわらず湧き上がってきていた。いや、おそらく大丈夫ではない。

昨今の民主主義の機能不全とポピュリストの台頭にも見え隠れしているように、極右政党の主張、有権者の投票行動は、1930年前後のドイツにおけるそれと非常に似通っているはずだ。そして、その有権者たちというのは、ヨーロッパお墨付きの反ナチ教育プログラムを受けたはずのヨーロピアンたちなのだ。

紋切り型としての「反ナチ」は「反ナチ」でしかなく、それ以上の広がりを持つことに限界があるということの証左ではないか。

 

ヨーロッパにおけるアジア人や黒人に対する暗黙の差別もそうだ。

例えばフランスで、ゴミ処理業者や清掃人はほとんどの例外なく黒人の仕事になっているということ。彼らの子どもが白人優勢のエスタブリッシュ階級に入っていくことは、日本におけるそれとは段違いに困難であるということ。

そして無自覚な大勢の白人たち。人種・出自による社会階層の隔絶とその再生産は、無自覚に、しかし粛々と行われている。そして、それを行っているのはやはり、ユダヤ人を迫害したナチを徹底的に否定する教育を受けたはずの彼らなのだ。

 

一昨日もまた、カリフォルニアでシナゴーグが襲撃された。まさにその反ユダヤ主義というのは、現代にも生きているのだ。その事実と、負の歴史の反省とが、どれだけの人にとって有機的に結びついているのだろうか?

 

 

 

 

不快に思う人がいたらすみません。でも、僕はあの場で率直にふと、長い列をなして人々をのみこんでいく収容所の建物は現代の強制収容所のようだ、と思った。

ナチスの犯した犯罪と人類の負の歴史を学び、それを繰り返さないためには、とりあえずここに足を運べばよいのだ——そう安易に信じ込んでアウシュビッツに訪れ、列をなしてまるで美術館にでも来たかのような気楽さで展示を眺める見学者たちの様は、「これからシャワーを浴びるのだ」と信じ込まされ、ガス室へ送り込まれた人々と重なる。彼らはそうやって何の問いも自覚もなく、痴呆症、不感症患者になっていく。

 

 

 

負の歴史を繰り返さない。そのための教育は、残念ながらまだ成功には至っていないのではないだろうか、ということを思う。もしかしたら、人間が歴史を繰り返さないということは、不可能なのだろうか?

 

 

   * * * 

 

 

アウシュビッツでの見学を終えると、シャトルバスに乗ってビルケナウ収容所を訪れた。しかし、そこにも陰惨な光景が広がっていた。ビルケナウの建物をバックに家族写真を撮る人々が目に入った瞬間、暗澹たる気持ちが抑えられなくなった。ここで家族写真を撮る人々は(しかも笑顔で!)、おそらく本当にネオナチであるに違いない。いや、本当にそうであってくれ。頼むから。

 

 

僕は、ビルケナウでの見学予定を大幅に短くして、シャトルバスでアウシュビッツにとんぼ返りした。そして、クラクフ行きのバスでアウシュビッツを後にした。これが、僕のアウシュビッツ訪問だった。

 

 

   * * * 

 

 

それから4日後。パリに戻ってきて、僕は真っ先にフィルムを現像に出した。

僕がいつも利用している現像屋は、フィルムを出したら1時間後くらいにデータ化したファイルのリンクをメールで送ってくれる。ネガは後日受け取る。

 

ワルシャワで電池を買って、それを装填して試し撮りしたときに、どうやらカメラが故障しているらしいということがわかった、というのは最初に書いた通り。そのあとどうしたかというと、少しパニックになってしまった僕は、感光覚悟で裏ブタを開けて、何かが詰まったりしていないか確かめたのだった。

おそらく複数枚のフィルムが感光してしまっているだろうと思ったし、そもそもアウシュビッツの写真は、きちんとシャッターが切れていたのかどうかもわからない。そんな状況だった。

 

(補足。未現像のフィルムを光に当てるというのは絶対にやってはいけないことで、これをやってしまうと基本的に感光してしまう。光をあてる時間と明るさによるのだが、僕は白昼のもとで、不具合を探すために長時間裏蓋を開けていたので、露出していた部分のフィルムを現像すれば間違いなく真っ白である。)

 

 

で、その送られてきたリンクを開き、ファイルを落として開く。そのフィルムのうち最後にきちんと撮れていた写真がこれだった。僕は文字通り、言葉を失ってしまった。

 

 

 

 

 

f:id:PostOffice:20190429100935j:plain



 

 

 

おそらく裏蓋を開けた際に、左端を除いて感光していなかったのだ。フィルムが巻き取られていた部分が感光を免れたのだろう。裏蓋を開けるタイミングが少し違えば、この写真は全部感光してしまっていてもおかしくなかった。

 

 

勝手な思い込みかもしれないが(そうに違いない)、僕には、この収容所がなにかに抗って自分の姿をフィルムにとどめたのだ、そうとしか思えなかった。

 

 

こうして熱に浮かされたように一気にアウシュビッツのことを書いているのは、たぶんこの写真のせいだと思う。とにかくこの写真は、確かに僕の目に像を結んだ。

 

とんでもないものを撮ってしまった。この写真を、僕は一生忘れることはないだろう。

「真の体験」信仰への懐疑、あるいは写真を撮ることの擁護

・「真の体験」の信仰 - 「自由気ままな旅行」?

 

ある友人が「自由気ままな旅行をしたい」と言い出したことがあった。行き先も決めず、ただあてどなく気の赴くままに旅行してみたい。どれくらい本気なのかはわからないけれど、そんなことを言っていた。

 

それに対して僕は、それはできないんじゃない?という、非常に面白くない返答をしてしまった。

 

僕はわりかし一人でいろいろ旅行することが多い方だと思うけれど、(定義にもよるが)「自由気ままに」旅行することは難しいと思ったし、今でもそう思っている。

 

 

まず、僕は鉄道が好きだし鉄道をよく使うんだけど、最低限大体の予定を決め、宿だけは取っていないと、野宿することになりかねない。僕にとってはおそらく、野宿するストレスは自由な旅で得られる心地よさを上回ると思う。

 

予定を直前になるまで決めないということは、案外金のかかることでもある。割引もないことが多いし、金券ショップも使えなかったりする。夜行バスも埋まってるかもしれないし、場合によってはタクシーを使うこともある。リアルな話、そういうのって地味にかかる。

 

それに、時間は有限だ。時間の制限は、(ひとまずある程度普通のやり方で社会に留まろうとする限りにおいては)厳然と存在している。それは、「○日までに戻ってこないといけない」という形のものであったり、「○年後には就職するんだよね」というものであったりする。自由というのはここでも制限を受ける。

 

もちろん、レンタカーを借りれば車中泊もできるし、より自由に旅行できると思う。それに、寝袋を持ち歩いていれば、より楽に野宿できるかもしれない。

でも、レンタカーは高くつく。元あったところにきちんと返却しないと乗り捨て料もかかるし、ガス代も高速代もかかるから。それに、寝袋があったって野宿はしんどい。

 

 

 

ともかくも、そんなに「真に自由気ままな旅行」っていうのは、おそらくある意味でかなり切羽詰まった精神状態なのだと思うし、少なくとも僕は普通の精神状態でしようと思わない。それは、ふらりと旅に出るという性質のものではなく、むしろ切迫した日常から解き放たれたくて、急き立てられて行くような旅行じゃないか?という風に思ったのだった。

もちろん、そんな気持ちになることがあるかもしれないけど、ないかもしれない。なくたった構わない。そういうものだと思う。その友人は本当に、何か切迫したものを抱えていたのかもしれないし、もしそうだとすれば僕は本当にばかな返答をしたものだと思うけれど。

 

 

 

・写真の話 - 「真の体験」はあるのか?

 

さてそこで、写真の話になるんだけど。

 

写真を撮らずに、自分の目にその光景を焼き付け、耳や肌で感じたい、そんな言説をよく目にする。その気持ちはとてもわかる。

けれど、それは僕にとっては一種の信仰でしかない。もちろん全然否定はしないけれど。

 

とにかく、言い切ってしまうと、そういった言説においては、「真の体験」「完全な体験」というものを過度に特権化・神秘化しているんじゃないかな、という視点を僕は持っている。

 

そんな「真の体験」みたいなものがもしある"とすれば"、それは息も止まるような光景を前にして、止むに止まれずそうなってしまう、そんなものなのであって、決して自分から追い求めるものではないような気もする。そうした状況をつくろうと努めること自体、一見誠実であるようにも思えるが、傲慢でもあり得ると思う。

僕も、すばらしく美しい景色に何度も出会ったことがあるし(もちろんみなさんにもあることでしょう)、そこで普通に写真も撮ったけれど、それは美しさや感動をそこなうものでは全くなかった。

 

繰り返すけれど、僕は改宗を迫っているわけではない。でも同時に、(無自覚に)僕らに改宗するように迫る言説もあって、それに対しての問題提起(というとやはり大げさだけど)をしているだけ。

 

 

 

ちょっと違うけれど、本を読むこと、またはどの本を読むかという選択にも、似たものがあると思う。

 

この世界には、僕たちが絶対に読み終わることができない量の本がある、ってよく言うけど、それでも僕らは何を読むかを選択しなきゃいけない。

 

確かに、どんな本を読むのも自由。とはいえ、どんな本に興味があるのかということは、どうしようもなく決まっていることもある。それは、受けてきた教育や周囲の環境、はたまた図書館のコレクションそのものにも影響されるだろう、というのもよく言われる通り。

さて仮に、それらの"障壁"が取り払われ、「自由に本を選んでください」と言われたらどうなってしまうのだろうか。有限の時間の中で、どの本を読み、または読まないかを選択することは、限りなく難しくなってしまうのではないか?

どうやって本を選ぶのか、それはまさにその"障壁"によって決まるのだから。

 

 

読書の方法についても、最初の文字から最後の文字まで、最高の集中力でもって本を読み通すことができたらいいと思う人がいるかもしれない。が、おそらくそんなことをできる人はいないだろうし、しようと思う人もいないだろう。いるとすれば、その人はやはり、そうあるべきであるような「真の読書」の信奉者ということになる。

 

難しい本だったら少なくとも部分的には読み直すことになるだろうし、そもそも、全ての部分を同じ集中力で読むことが果たして誠実な態度なのかという問題もある(読書の仕方は、自分自身試行錯誤している部分もあるから、あんまりえらそうなことは言えないわけだけど)。

 

 

 

・なぜ写真を撮るのか

 

そんなわけで、「自由な旅」というのをやってみようとすると案外難しく、美しい景色を見つつ「真の体験」を求めても、(少なくとも僕は)どうすればいいのかわからず、じたばたと窒息してしまう。

 

全くの自由とか、全てを感じるとか、僕はそんなことができる全能者ではない。

それらは想像するには足るものだけれど、この世界に「完全」は概念としてしか存在していない。

 

 

でも不完全っていうのは悪いことではなくて、僕たちは僕たちの体験を終わりなく、無限に豊かにしていくことができるのだと思う(これは1/3くらい教授の受け売りだけど)。それが「完成」されるということは永遠にやってこない。「完全」は存在しないのだから。

 

その方法は、例えば自分の体験を日記に書くことだったり、写真に撮ることだったり、その写真や日記を5年後10年後に眺めることだったり、一緒にいた友達と思い出話をすることだったりするのだと思う。僕にはできないけど、絵に描いたり、音楽にしちゃう人もいるかもしれない。

 

だからこそ、真の体験なんかないからこそ、僕は自分の体験を、もしくは自分自身をより豊かにするために、写真を撮る。写真じゃなくてもいいんだけど、僕は写真を撮る。そうして、自分に書き込み-刻印をしていく。

 

自分にとって写真を撮るということの意味をもっとも大きな意味で問いかけたときには、このようなことになると思う、ということで、写真を撮ることへの擁護にもなっているだろうか。