罪責性と倫理について

・「罪責性」とは何か。僕はおおよそculpabilityのことを念頭に置いているが、二つの概念の間には微妙な相違がある。

本来適当な訳語は「有責性」というほどのことなのだろうが、「有責」という語からは「責」を負わせる側と負う側の対立関係を連想させるし、その結果として後述の通り「有責性の経済=エコノミー」が喚起されてしまう。僕がここに想定する「罪責性」はそのような照応関係をもつと限ったものではないし、またそれぞれ固有な性質を持つ。

また「罪責」という言葉からはguiltすなわち「罪の意識」のことが想像されるが、単にこれは全く違う話。ここに想定する「罪責性」はそのような主体の「感情」ではないから。

 

 

・おそらく多くの人間が多くの人間に対して罪責性をもっている。

しかしこうした罪責性を単に「加害-被害」のような概念の対によって説明しようとする試みは危うい。なぜならそのような照応関係に帰着させる試みは、往々にして経済=エコノミーのシステムへと向かってしまうということがあるからだ。罪責性がいわば通貨として流通し、転嫁され、足し引きされる、そんな「罪責性の経済」へと問題を変質・縮減させてしまうという事態が生じうる。

 

確かに私たちの生がグローバル資本主義に取り込まれてしまっている以上、このような照応関係(罪責性の経済)を全く考慮しないわけにはいかないということは認めなくてはならない。搾取された他国の人々が収穫した作物で身を養っておいて、「罪責性は流通しない」などとのたまうのはあまりにも能天気すぎるということだ。

 

しかし罪責性をエコノミーの領域のみに押し込めることもまた問題だろう。端的な例として、現行の刑罰はそのシステムを「量」に負うところ大であるが、懲役の年数が「罪」を十全に表現しているわけではないことは自明だ。

罪は本来足し引きできない。罪が贖い(redemption, rachat=買い戻し)によって償還されるという想像的事実は、なるほど一対一の人間関係を維持する上では有用かもしれず、また社会を”潤滑に回す”ためにもまた必要とされるかもしれないが、それはあくまで空想の産物でしかない。実際のところ贖われているのは「罪」そのものではなく、例えば個人間においては「後ろめたさ、罪の意識(guilt)」が買い戻されているにすぎない。

 

・エコノミーから離れて考えるとき、私たちはみなそれぞれ固有に罪責性を持つと言うしかないのではないか。これを一つの視座として提示してみたい。

さらに言えばあらゆる行為にもやはり固有の罪責性がある。贈与にしても、ある人への贈与は他のある人への非-贈与である。これは詭弁ではない(トロッコ問題でも想起すればよいのではなかろうか)。あらゆる主体はあらゆる行為について罪責性を抱えているというわけだ。

 

何やら後ろ向きにも見えるわけだが、その実これは決して悲観的なヴィジョンではないのではないか。

ある主体がいかなる罪責性がないと言ってしまうことはあまりに能天気すぎる。一方で、善行を為すか罪を負うかという二者択一に陥ってしまうのもまた問題だろう。そもそもこれらが裏表の関係をなしていると考える時点で罪責性をエコノミーの領域に押し込んでいる。二者択一問題を「捏造」してもどうしようもない。

 

逆に言えば、どの行動にも固有の罪責性が「ある」のだから、罪責性の「有無」が行動を縛るということはないはずだ。ならば私たちが行動を選択する基準は、罪責性ではなく「倫理」の側に求めればよい。すなわち「何が善なのか」という問題だ。あらゆる行為に罪責性を見いだすことで、行為の選択を否定的ではなく肯定的なものとしてとらえることができるようになる。

 

・これは出発点でしかない。いかなる行為にも罪責性がつきまとうという視座を提示する価値はあると思うが、現実の生の指針としては全く十分ではない。

問題は「いかに善き生を行うか」。「何が善なのか」。「私たちの経験的な善の認識とはいかなるものなのか」。

 

ある意味では、別にこんなことを考えずに自らの意志におもむくまま行為できればそれでいい。善き生を志向するか否かは主体が選択することでしかないのだから、それでよければ勝手にそうすればよい。ただその「意志」を解体され見失ってしまったとき、そして何も行為できなくなったとき、「善」への問いが立ち戻ってくることになるだろう。

 

しかし一方で行為することから逃れることはできない。行為せずに生きることはできない。

また選択することからも逃れることはできない。例えばフローチャートのような一種の体系に当てはめて行為を選び取るという生は果たして善だろうか。明らかに否である。フローチャートが存在するという時点でその主体にとっての「善」の認識は固定されてしまっている。

(補足するが、例としてあらゆる種類のマイノリティのことを想起されたい。性的マイノリティについて情報を更新しないのは論外として、「フローチャート」上には有限個のラベルしか存在せず、そこに「グラデーション」はあり得ないという事実を提示するだけで説明は十分だろう。)

そもそも前もって用意された体系は世界の潜在的可能性をあらかじめ消去することでもある。無限の可能性を秘めた世界に対して私たちの経験的認識は有限でしかあり得ないが、だからこそその認識を不断に更新し、能うかぎり十全なる「善」の認識へと近づけなくてはならない。

 

善とは何かという問いを不断に自己へ投げかけつつ、行為から逃げないこと。ひとまず自分にできることはそれしかない。どちらも難しい。

 

ただ救いなのは、「罪責性(culpabilité)」の問題と違って「善」の問題には言うまでもなく多くの先人が思考を重ねてきているということだ。「本を読めば解決する」と言いたいわけではないが(これこそフローチャート的行為選択だ)、豊かな思考の堆積があるという事実は大きい。

もちろん善についての問いは自己への反省的な問いでもあるだろうが、同時に他者(思想家とは限らない)との対話の中でもなされなければならないだろう。繰り返すが、自己の認識能力は有限である。自己のうちにないものは他者のうちに求めるしかない。

 

罪責性を認めてなお善く生きること。繰り返すが本当に難しいことである。