展示「デイジーチェーン」(TOKAS)の感想メモ(石塚まこ、高石晃)
昨日、「トーキョーアーツアンドスペース(TOKAS)」で行われていた「デイジーチェーン」という一種の成果発表展を観に行った。印象に残った作品が2つあったので、紹介を兼ねて感想を書き留めておく。
1つは石塚まこによる展示。彼女のHPはこちら。作者自身による作品の説明もある。
今回の展示では"Graphic Movements(Lean on me)"という20分ほどの映像作品があった。ネット上にもその抜粋(約5分)がある。なぜか再生回数は60回ほどだが。
https://www.youtube.com/watch?v=XiW9d_t4KuE&feature=emb_title
この映像作品の中ではあるゲームが試みられる。このゲームとは要するに、背中を合わせて立つ2人の人間が手を使わずかつ倒れないように体操座りの形で座り込み、そしてまた手を使わずに立ち上がってみるというもの。場所や人を変えていくつかのチャレンジの様子が撮影されている。
作者自身が意図したことかどうかはわからないが、このゲームを「他者との共生」とみなしたとき3つの点において面白く観た。いちいち書くようなことでもないのかもしれないが、簡単に書いてみる。
・アンバランスさ—他者性の露出
もちろん最初はうまくいかない。片方の体格が良くてもう片方が小さい場合、どうやってもバランスが悪くなり倒れてしまう。言語を使えば難なくコミュニケーションが取れる友だちだったはずが、このゲームに参加することでにわかにその他者性が浮き彫りになる。
しかし、力加減を探るうちに良いバランスが見えてくる。そうして彼らはよく見知った人間の(もしくは見知らぬ人間の)新たな一面を知ることになる。まず他者性を露出させることで彼らはよりよく共にあることができる。
・見えないということ、背中が触れていること
背中合わせである以上、相手を見ることはできない。「視覚」が封じられていなければこなせるはずの動作がこなせない。
封じられているのが「目」であるということはあまり重要ではないだろう。「目」に限らず、そしてこのゲームの中に限らず、私たちは他者を完全なやり方で把握することができない。他者の感情や知覚を直接認識することはできないが、それらは何らかの間接的な方法によって(例えば言語によって)把握される。
その意味でこのゲームは2つの学びを与える。何らかの感覚が封じられている状況で他者とコミュニケーションを取るすべを学ぶこと。そして別の新たな感覚(背中の触覚)をもとに他者とコミュニケーションを図るすべを学ぶこと。
・ゲームの座につかせる難しさ
もちろん作者本人にとってこの作品における「共生」というテーマがどれほど重要な位置を占めるのかはわからないが、このゲームを他者との共生の試みとみなす場合、やはり難しいのは「そもそもこのゲームに参与させること」である。
実際、参加している子供たちの中にはルールを理解できず、体操座りではなく正座をしてしまう者もいた(むろんこれだと簡単すぎてゲームにならない)。これは象徴的な事例としても、ゲームのルールに従わないということはいくらでもできてしまう。
むろん参加する意思のある人間だけでゲームを行うことも可能だ。僕自身、そのような友人とのみ「共生」をやっていくことも可能だと思う。しかしそうでない場合は……?
この点については少し考えさせられる。
いずれにせよ、他者と背中を合わせて「共に立つ」という試みは面白い。そもそも「共に-立つ」ということは、"coexist"の語源的意味(co-ex-ist、共に-外に-立てる)にも遡るものだ。あまり能天気に過ぎるかもしれないが、こうやって他者と共に立つ=共存することの実践を見るのは悪くない体験だったと思う。
なお、もう一つ印象に残った作品があった。高石晃の"Linna A"。5分ほどの映像だが、こちらもネット上に短いバージョンの"Linna"がある。
個人HPはこちら。
特に書き留めておきたいことはなかったのだが、個人的には先日観たギオルギ・オヴァシヴィリ監督『とうもろこしの島』(2014)を思い出した。そしてさらに個人的な感想としては、星型要塞を模したこの小さな城塞(?)に丁寧に作られた階段がとても好きだった。