『うたのはじまり』についての覚え書き

『うたのはじまり』という映画についての私的かつ部分的な感想。

この作品は難聴の写真家である齋藤陽道氏と「うた」をめぐるドキュメンタリー。映画の包括的な説明をするつもりはないのでそれ以上何も書かないでおく。

 

書いておきたいのは、作品中で最も印象的だったシーンについて。それは冒頭、氏が監督の河合宏樹氏と「うた」について筆談をしている場面だった。

 

難聴の彼にとっては学校での音楽の時間が苦痛だったと語るシーン。彼はそこで「ぼくにとって音楽はただの振動でした」と書きつける。これはろう者の発言としては決して驚くべきものではないだろう。しかし、「ぼくにとって音楽はただの振動」まで書いてから「でした」の3文字を記すまでの間にわずかな、しかしはっきりとした間隙があったのが僕の目をとらえた。時間にして3秒ほどだろうか。

 

「でした」というきわめて簡潔な言辞をさらりと書くことを許さなかったのは何なのか。むろんそれについては想像するほかないのだが、ともかく「音楽がただの振動でした」と言い切ってしまうことへのためらいを見て取ることはできる。

断定へのためらい。しかしそれは同時にためらいながらの断定でもあった。この事実を確認し乗り越えたこと、「音楽がただの振動」であるという地点から出発するということが、彼の「うた」の探求において必要不可欠だったのではないか。

それ以降の様々な場面において、彼は文字を通してというよりまず「振動」によって音を聴こうとする。シンセサイザーの音、ギターの音、そして我が子の発するあらゆる音。彼はひとまず振動によってしか音を感知することはできないのだ。

 

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関連して想起されるシーンがある。

それはある講演会での一コマ。彼はチャット形式の筆談で聴衆からの質問に回答し、写真についての自らの考えを伝える。そこで彼は、(これも非常に細かい点なのだが、)写真を表現する語として「情景」と書いたすぐあとに「光景」と書き記すのだ。

 

なぜ「情景」では不十分だったのか。

多くの人々には情動を引き起こすはずの「音楽」が彼にとって「振動」でしかなかったように、写真が情動を喚起する「情景」ではなく単なる「光景」でしかないという可能性に、おそらく彼は敏感である。音楽にしろ写真にしろ、それらは感情を喚起する何かである以前に単なる音ないし光である。

 

この即物性の認識はやはり先のシーンと通底しているが、今度は「音楽」ではなく「写真」が問題となっている。彼がまずそう記したように、写真が写し出すのは共通のコンテクストに基づいた情動とセットになった「情景」でもあり得る。しかし彼はそこから写真を引きはがし、あえて「光景」と表現する。コンテクストや環境によっては「音楽」が苦痛を引き起こす。しかし彼の表現手段である「写真」についても同じことが起こりうる。その事実に目配せがなされていたということに僕はひっそりと感動していた。

 

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私たちがなんとなく「情動」と指すもの——それは多くの場合「快/不快」という指標で測られる——によって、私たちの感覚は逆に縮減されているのではあるまいか。僕はそんなことに思いを巡らせていた。もちろん快い感情を引き起こす音楽(や写真)を捨てる必要はない。しかし、その情動の向こう側(いや「手前」かもしれない)を知ることができればもっと世界は広がるのではないか。そしてそこから戻ってきたとき、私たちが見る光景はまた違ったものとなるだろう。

 

文字にしてみると何やら当たり前のことのような気もする。それにもちろんこれは近視眼的な感想でもある。しかし一人の人間の実践を目の当たりにしたという事実はあまりにも大きかった。まだ全てを消化しきれてはいないに違いないが、これからふとしたときに今日観た映像を思い出すときが来るのだと思う。

 

(あとがき(?)。この映画はとある友人に勧められて観に行ったのでした。もう公開している劇場も少ないのですが、興味のある方はぜひ。)